2011年11月30日水曜日

知の素性

以下、個人的な思いにすぎないのですけど…写真とそれを論じることには、この時代のコミュニケーションの問題を解決する為のヒントがあるように思っています。だからこそ、僕は、[ロラン・バルト]の『明るい部屋』からはじめてみるのが面白いと思います。

写真のような視覚的な情報を認識する際、人は、今見ているもの(それ)が自分の記憶にある過去に見たもの(それ)と同じものかを何度も確認します。このようないちいち疑ってかかるような認識が、僕たちが失いかけている事物のリアリティの問題をふたたび浮かび上がらせてくれるんじゃないかと思うのです。

『明るい部屋』という作品では、最初に、写真と言語の結びつきが論じられています。ところが、後半、一転して、バルトは、自分の亡くなった母親の面影を留めた写真が見つからないことを明かし、それをことばによって掘り起こそうとしていくのです。

母親の写真は何枚もあるのに、バルトの記憶にある、あの面影を留めた写真を探していくこと。こころの内側にある思いをことばにすることのもどかしい試みです。本来的には、人がこころのうちにある思いをことばに置き換えることの難しさは、こういうところにあるのではないか?と思うのです。

安易に身近なことばを拾い上げて、自分の感情だと言い切ってしまうことは容易い。大手レコード会社では、ヒット曲の歌詞を言語解析して、頻繁に出てくる単語を新曲に使うようなことをしているそうです。こころに甘美な感情を引き起こさせる脳内麻薬のようなことばの力を、その効果だけを期待して、簡単に、倫理的な躊躇もなく、しかも、作為的に挿入してしまうことができることばの措かれた現実。

とても残念なことなんだけど、ことばそのものは、そもそも誰のこころのうちと結びついていたものなのかを示すような「知の素性」を持たないのです。だからこそ、「知の素性」のような、これが何処からやってきたのかを探ろうとする姿勢を持って、言葉に接する必要があるはずなのです。

そして、だからこそ、写真のように、それそのものだけならば、なぜそれがそこにあるのか、なぜその写真がそれを見せてくれているのか、を疑問に思えるメディアが生まれたことは、本当に素晴らしいことだと思うのです。

もっとも、バルトの『明るい部屋』が最初に展開するのは、母親の面影についての考察ではなく、写真と言語の間にある強い結びつきだったりします。つまり、写真は、生まれたときから、言語のもつ強い強い力と引き離せない関係にあって、この社会のなかでは、ことばの呪縛に囚われている間には逃げられないようになってしまっているんです。

つまりは、「母親の」写真ではなく、自分の記憶にある「母親の面影」を写真が留めているにすぎないはずなんです。

バルトは、写真論に限らず、多くの著書で、ことばの強さと、ことばのもつ強い恣意性を分析しています。

2011年11月28日月曜日

こころの物差し


本来、他者がことばに託す意味は、僕たちが自覚すること以上にたくさんあるはずだ。僕たちは、僕たちのこころが自発的に受け取る(プルする)ことのできる「共感」と「セレンディビティ」程度の意味しか受け取ろうとしない。

「共感」は、自分が元々受け取りたいと意図していた価値観であることが多く、「セレンディビティ」は、意図せず偶然受け取ったような賜物的な価値観であることが多い。そして、たいていの場合、他者の意見とは受け取りを拒否したいと思っているような他者の「押しつけ(プッシュ)」のように感じている。

だから、僕たちは、わずかな意味しか受け取ることができていない。しかし、僕たちが批判的に「意識」している他者の価値観というものは、実は、一度ならずとも、僕たちのこころに刻まれたことのある「意味」でもある。だけど、なんとなく難解で厄介な記憶のなかで、そのような「意味」の受け取りを拒否するようになったものだと思う。

このような「意味」を含めて、僕たちのこころに許容できている「意味」は、人間が常に新しい能力を身につけてきたという人類の可能性から考えると、とても少ないように思えるのだが、現代人の多くは、もういっぱいいっぱいに感じているのかもしれない。

こころの中で捉えられる「意味」を測る尺度というのは、数理的な解釈をしてみると分かりやすい。

数直線の上には、整数のような「有理数」が存在している。「有理数」と「有理数」の間にたくさんの「無理数」が存在している。僕たちが意識している「意味」とは、「有理数」のようなものだと思えばいい。そして、他者の意識している「意味」は、運よく「有理数」としておくことができるときもあるのだけれど、最近では、頻繁に、「有理数」と「有理数」の間にあるような「無理数」のような「意味」になってしまうことがある。なんとなく判ったような気がする瞬間もあるのだけれども、面倒になって、数直線の上に現われないことさえ起きはじめている。

このような道の数字に出会うことが起こるのは、学習の経験がとても退屈で、楽しいものじゃないと思う人が多いことに起因しているのではないだろうか。

このような自分のこころの中に措くことのできない他者の感情を受け取ったり、それに気がついたりすると、こころは、どこかもどかしいし、どこか消化不良で、気がつくと、そんなもどかしいもので溢れそうになっていることがある。

自分のもどかしい思いと同じように、他者ももどかしい思いをしているはずなのに、自分の物差しに刻まれた尺度が大雑把すぎる為に、相手の意味をとらえることができない。勿論、尺度が細かければ、すべてにことが足りるという訳でもない。大きな概念には、大きな尺度も必要になるはずだろう。

僕たちの「こころ」を測る為には、僕たちは、その物差しの尺度を確かめながら、他者の言葉を聞く必要があるはずだ。

2011年11月15日火曜日

共同社会と利益社会


ゲマインシャフト(共同社会)とゲザルシャフト(利益社会)では、知識を共有するのか、独占するのかで明らかに異なると思います。

エマニュエル・トッドが指摘したように、家族システムは、『世界の多様化』の根拠になっているように思います。そして、家族は、家族という同胞を守るための最も小さな単位のゲマインシャフト(共同社会)です。そして、地域社会は、これまで、こうした家族を単位に構成されていました。言い換えれば、地域社会は、部族であったと言えるのではないでしょうか。
家族システムでの知識の共有、経験の共有が、個々の価値観を形成し、さまざまな物事を理解するための概念基盤となり、社会を安定化させる言語や文化的コンテクストを生みだし、育んできたと思います。
僕たちは、核家族化の流れに乗って家族システムを細分化し、物理的に分散し、それぞれの都合に合わせた時計を持つようになった。その結果、個人消費の快楽に身を委ねて、家族と行なってきたような、知識の共有を怠ってしまったのかもしれません。
僕たちの得ることができる知識は、コンビニエンスで、グーグルで検索し、アマゾンで購入し、フォロワー数で評価され、プラグアンドプレイできるものと信じいるかもしれません。
でも、知識と経験の間には、大きな隔たりがある。それは、アリストテレスが『形而上学』で述べていたように、個別の現実に対応できるかどうかということ。経験には、「この子には、こうしてあげるといいのよ」といった母親やかかりつけの医者が知っているような、より深い、より個人(個別)最適な知識があります。
多くの人が不安を抱く背景には、自分だけの事情、自分の関心がある事情に個別最適した知識を持つ人が不在な状況があると愚推します。
現代社会では、『経験を伴った知識の共有化される範囲』は、『地域』ではなく『知域』なんだろうなあ、と思います。玉置さんの指摘されていた『知域』という言葉の中に、僕がハッと息をのむような思いにさせられるのは、仮想的な家族システムのような影が見え隠れすることです。

なぜ、ノマドでありながら、シェアハウスなのか?

僕たちが、新しい世界に踏み出していることは間違いないと思います。その世界は、自分だけが「面白い」と感じる美学的なセンスで溢れているのかもしれません。だから、本当の家族にも、その知識がどのような系譜で得られたものか、うまく説明できないかもしれません。特に、科学的な知識というものは、もはや記号や呪文のように思える言語を駆使して生み出したメタな言語である為に、本当の家族にはわかってもらいようがない。それほど、知識の共有は、知識の偏愛の中で、偏ってしまっている。しかし、自分たちが身につけた知識を目の前の現実に応用したい、個別最適してみたい。そして、そこに経験が生まれるのを誰かと共有していたいのではないでしょうか。

どのような「利」を持って、個を「益」するのか、『利益社会』は大きく変わろうとしている。金銭という単位では、失われた「経験」の場を取り戻すことができないのではないのでしょうか。

古代ギリシアのポリス市民は、「家族内における生命の必要〔必然〕を克服すること」と考えて、「暴力」を肯定しました。そして、自らの「経験」の場をポリスの政治的活動に求めました。なぜなら、そうすることによって初めて、ポリス市民は、自らの存在をリアルに感じることができたからです。卓越した能力を持ったポリス市民は、そうしなければ、家族の中では、ただ得意な人間であっても、理解者が得られなかったのです。僕は、ポリス市民が私財を投げ出して、ポリスの政治的活動に参加しようとした背景を現代社会の物差しで測ることは難しいと思っていましたが、ここにきて、どのような「利」であったかを考えるにつれて、見えてくるものがあります。

僕たちは、金銭がさまざまな代替物に置き換わるという「利」をもたらす事を知っています。しかし、共有された「経験」が「利」をもたらす事をなかなか公言しようとしません。でも、僕たちの捉えていた「利益社会」は、概念基盤を変質させようとしているし、ある「知」に興味を抱く人たちが得ようとしているのは、その「知」を「経験」に変えることなんじゃないでしょうか。そして、「経験」は、冒頭に述べた「独占」という概念に生理矛盾を引き起こしてしまうんだと思います。

原発事故をみて、ウォール街占拠をみて、原子力や金融工学の知識は、「知」を共有できても、「経験」を共有できません。911や311では、「経験」を共有できても、「知識」の部分は隠されてきている。

現代のマスメディア報道は、そのように考えてみると、「生命の必然」とも思えるような「知」を与えてくれません。それが、家族ではなく、国家を存続させる為の「必然」だと言われても、僕自身は納得がつきかねます。でも、その因果関係を証明する方法はない。だからこそ、ソーシャル・メディアによって、ひとびとが知識を共有し、体験を語り合い、あえて「暴力」を選択しているような時代を垣間見ている思いです。

僕は、社会は共同体であると思っています。それは、家族システムのような概念基盤を核にして、言葉を生み、育み、僕たちを守ってきました。だからこそ、共同社会を否定するつもりはありません。一方で、利益社会は、さまざまな物質的循環を効率化してきました。しかし、「金銭」という尺度だけでは、国全体に張り巡らされた流通網も、部分的に壊疽させてしまうような状況をつくり出している。国家に帰属する僕たちが、自分たちの身体の一部を壊疽させることを必然だと選択することは、麻薬に取り憑かれた患者と同じで、間違っています。

国会にまかせて考えてもらうのではなく、「利益」のあり方を考えるべきだと思います。それは、「金銭」によるものなのか、「知識・経験」によるものなのか、は一つの論点になるんだと思います。

その上で、もっと多くの議論をして、僕たちの「共同社会」の概念基盤を明確にしておくことが大切だと思います。