2012年1月2日月曜日

スカイプ鍋

スカイプ鍋

「スカイプ鍋」とは、インターネット上で提供されている会話サービス「スカイプ」を使って行なう複数人での「会議通話」である。このサービスは、インターネットに接続された環境があり、音声通話だけであれば無料で利用ができる。

僕は、ツイッターやフェイスブックで知り合った人たちと行なう音声だけでの「会議通話」を「スカイプ鍋」と呼ぶことにした。これが、一度やってみると、なかなか面白い。

「スカイプ鍋」をやってみると、まるでヤミ鍋のような感覚が生まれる。

「ヤミ鍋」には、あらかじめ仕込んでおいた鍋料理を暗がりのなかで友人たちと食べるだけなのだが、ちょっとしたゲーム感覚がある。鍋の具材に、普段の料理では入れないようなものを入れておくことがポイントになる。暗がりで鍋をつつくと言っても、鍋を温める火のおかげで、適当にぼんやりと友人たちの気配を感じることはできる。だけど、肝心の鍋の中身はわからない。具材を取るために鍋をつつくのだけれど、思ったとおりの具材を取ることが叶わないので、どんな具材を取ったかは、食べながら自分で想像することになる。もちろん同じことが、自分だけでなく友人たちにも起こるから、暗がりのなかから聞こえる音や声だけが想像を刺激することになる。

すぐ近くで起きている現実であるはずなのに、自分に起きていることではない。でも、確かに起きているという現実。このような不思議な感覚がヤミ鍋では起きる。

「な、なんだこれは?」
「おお、美味いなあ。これは…」
「え?な、なに?」

このようなヤミのなかで聞こえてくる友人たちの声は、それを聞く人の頭の中、つまり、想像だけで具体化されることになる。

つまり、「スカイプ鍋」とは、そのような「ヤミ鍋」的なリアリティから発想したようなものだ。

会話をする相手は、ツイッターやフェイスブックで知り合った人たちである。実際に会ったことがない場合がほとんどだろうけど、知り合った経緯から考えれば、まったく興味関心が異なるということはない。もちろん、鍋料理そのものを用意する必要はない。実際に会話をはじめて見ると、「ヤミ鍋」をつつくように、話し手が誰かを特定することもなかなか侭ならないことが多い。そして、あまりよく知らない相手が話す言葉というのは、とても生々しく思えるのだけれど、その一人一人の意見が、その人にはどんなものかリアルに感じられているのだろうけど、話だけを聞いていると、実に主観的に聞こえるものであることを痛感させられる。

そう。「人の意見はかくも主観的である」ということを実感でき、そして、それが特別なことではなく、僕たちの日常的なやりとりだと気づくことができるのが、「スカイプ鍋」の面白いところだ。そして、そのことに気づいて上手く話そうとするのだが、話す技術よりも、聞く技術がとても重要だとわかってくることも面白いところだ。

「スカイプ鍋」の醍醐味が、まさにそこにある。

「これは、蒲鉾だよね?」
「え?そんなの入っていた?」
「うん。あった。あった。」

今、まさに自分が感じていることなのに、誰かが言ってくれる表現が、自分のリアリティを補完してくれることに繋がる。そして、このような自分以外の人が感じている言葉が聞こえてくることによって、自分自身が感じている言葉を、より安心して発することができるような感覚が生まれる。

「スカイプ鍋」を通じて、そこに参加した人たちの心が和みを覚えることに気づかされるはずだ。

――

フランス人哲学者、フェルナンド・ガタリは、『分子革命』のなかで、ネットワークの特質に触れて、以下のように書いている。
このネットワークは従来の表現形式を拡充することによって、…いっさいの現実から断絶した観念的論議から脱出することに貢献しようとのぞんでいる。p222
「現実から断絶した観念的論議から脱出する」というのは、すこしむずかしい表現だけど、以下のように考えてみるとわかりやすいだろう。

自分だけが感じている、あるいは、気づいている問題について、できる限りわかりやすい文字を書こう書こうと意識すればするほど、より自分だけが感じる表現について論議しようとすることになる。だから、このような閉塞してしまいやすい論議を避けるためにも、ネットワークによる表現形式が拡充されることが役立つだろう、とガタリは考えている。

――

まあ、手っ取り早く「スカイプ鍋」を試してみることをお勧めする。なにしろ、インターネット上で、このブログを見ているような環境がある人であれば、すぐにでも始められることなのだ。だからこそ、この手軽な「ヤミ鍋」気分を楽しんでみるといいだろう。

眼の前にいる人間の姿が消えて、声だけがお互いを確かめあう手段になってみると、もっと上手く気持ちを伝えあうこと、もっと上手く気持ちを聞き取ることの大切さに気づけるはずだ。

そして、そんな状況のなかで聞こえてくる声のなかに、自分の感じている感覚と似たようなものを感じるとき、周囲から聞こえてくる声が、自分を「安心」させてくれる、そんなぬくもりがあるはずだ。

そして、そのような瞬間にこそ、「蓋然性の他者」が「必然性の他者」に変わる瞬間を確認できるんじゃないかと思う。


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