2015年9月2日水曜日

接続する人たち

接続する人たちの距離
ネットワークは、接続する全ての人たちの距離を限りなく近づける。
それは人が存在する場所を〈物理的に近づける〉という意味ではない。コミュニケーション(情報共有)を通して、〈精神的に近づける〉ことを意味する。
一方で、人には、それぞれに置かれている文脈や経緯、人間関係というものがある。いくら、ネットワークに接続しても、そういうものは近づきようがない。

共有化することの意味
ネットワークに接続する全ての人たちにとって、ネットワーク上において〈共有する・しないを明確に判断すること〉が、とても重要な意味を持つ。
ネットワーク環境にない人間関係(たとえば、従来の物理的な世界)では、秘匿される情報や主張される権利を共有化することは、ずっと避けられてきた。ネットワーク環境にある人間関係(例えば、知域のような精神的な世界)では、あらゆる情報やあらゆる権利を共有化することが追い求められてきた。
過渡的なことではあるけれど、情報技術リテラシーというものがある為に、つまり、ネットワーク環境に精通していることへの多少が人によって異なるために、ネットワーク環境にある情報が共有化されている人たちとそうでない人たちに分かれる状況が起きる。この共有化の有無によって、様々な問題が起きる。

ネットワークに繋がること
僕たちは、ネットワーク環境に繋がることで、何がしたいのだろう?
ネットワーク環境において既に共有されているモノを、ネットワーク環境に不慣れな人たちの前に示しても、そのモノが珍しく思われるのは、精神的に距離を感じている時点に限られる。誰もが、その在りかに気づいてしまえば、それは精神的には、遠い近いのような距離感ではなく、既知か、無知かということになる。

共有化することに凄まじい力を集中させてきたネットワーク環境が、ネットワーク環境に接続してこなかった人たちに、ネットワーク環境がある世界の現実を見せている。

そういう今に、僕たちが在る。

2015年5月12日火曜日

現実嵌入と母国語

非文法的言語としての日本語

森有正は、『経験と思想』において、「日本語は非文法的言語である」と言う。
日本語は、文法的言語、即ちそれ自体の中に自己を組織する原理を持っている言語ではない、という事実にあると考えている。もちろん現実との関連において、完全に論理的に組織されている言語は存在しないのであるから、これは相対的なことであるかも知れないが、日本語では、その非文法的である度合いが甚だしいのである。…人は中等教育用の文法の教科書が存在することをもって反対の論拠としようとするかも知れないが、この種の文法の教科書は、英語やフランス語における実用規範文法とは全く違ったものであり、それは日本語の機能を帰納的に整理したものであっても、そこから逆に日本文を再構成することは全く不可能である。p118
そういうわけで、日本語に規則を樹(うちた)て、変でない日本語を書きうるようにしようとすると、規則は現実と同じように複雑になり、規則の規則としての特性が失われてしまう恐れがある。p121
森は、「日本語が不完全である」と言っているのではない。

ここで、〈生れてから物心をつくまでに身につける日本語(母国語としての日本語)〉と、〈大人になってから別の言語を通して習う日本語(外国語としての日本語)〉と比較したとき、〈外国語としての日本語〉を習うには、文法を通して習う必要があるのだけれど、文法を習っても、すぐさま「日本文を再構成することは全く不可能である」ことから、森は、「日本語は非文法的言語である」というのである。


言葉と現実を結びつけるもの

一方で、森は、英語やフランス語にはない、日本語独自の、現実のニュアンスを映そうとする機能について主張する。
助詞は、その数は限定されているが、あるいは独立して、あるいは互に組み合わせられて、ほとんど無限に複雑で予料できない現実のニュアンスを映す作用をもち、またそういう無限の可能性を含みうるものとしてのみ観念されることが出来るのである。ただしかし、その「無限の可能性」は「現実」のそれであって、助詞に内在するものではない。助詞はそのもつ方向性のみによって分類されうるもので、その内容としては無限定の現実を映すという規定できない性質をもつのみである。だからそれは、英仏語などにおける前置詞、前置句、あるいは、後置詞などと違って、言葉の内部の一部であるよりも、言葉と「現実」とを結びつける紐帯の如きものである、と言ったほうがよいように思う。p121
ここにある、「助詞は、…その内容としては無限定の現実を映す」、或いは、「言葉と「現実」とを結びつける紐帯の如きもの」という表現から、日本語文法の研究者であった、時枝誠記の言語イメージが想起される。

時枝によれば、
言語はその本質として、人間が思想感情などを可聴的な或は可視的な媒材即ち音声或は文字を借りて外部に表出する処の精神活動であると云ふことが出来るであらう。
とあるように、「言語は…精神活動」であるという立場から、「言語過程説」を打ち立てている。


言語過程説

小池清治は、『日本語はいかにつくられたか』のなかで、
この問題を考へて私は言語は絵画・音楽・舞踊等と等しく人間の表現運動の一つであるとした。然らば言語と云はれるものは、表現活動として如何なる特質を持つものであるかを考へて始めて言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来るであろうといふ予想を立てたのである、 『国語学への道』
のように、時枝の言葉を引用した上で、
「言語は、…人間の表現運動の一つである」という断言は、この段階ではどのような内包を持つもの表現であるか、はっきりしないが、後の「言語過程説」に繋がるものであることは感得される。p219
と述べている。

「言語過程説」は、「言葉を発しよう、或いは、書いたりする(表現過程)」と「聞いたり、或いは、読んだりする(理解過程)」の二つの過程をみることができる。このとき、どのようにして自分の考え(それを「概念」と呼ぶ)を言葉にするか、あるいは、言葉から自分の考えにするかを「言語過程」として捉えようとする。


詞と辞

時枝は(『国語学言論(上)』第三章二節「単語に於ける詞・辞の分類とその分類基礎」において)、日本語の単語を以下のように分類している。
一 概念過程を含む形式
二 概念過程を含まぬ形式
小池は、これらは、以下のように解説する(p223)。
「一」は普通いうところの「名詞・代名詞・動詞・形容詞・副詞・連体詞」のことで、時枝はこれを「詞」と名付ける。「詞」は事柄・概念を表現して、文における客観的素材表示の機能を果たすものである。 
「二」は普通いうところの「助詞・助動詞・接続詞・感動詞」のことで、時枝はこれを「辞」と名付けている。「辞」は言語主体(話し手・書き手など)の主観的判断、感情などを表現して、文における主体的判断表示の機能を果たすものである。
より詳細な解説は、時枝の『国語学言論』を参照してほしい。

ここで大切なことは、森の「言葉と「現実」とを結びつける紐帯の如きもの」に相当する役割を、時枝が指摘していることである。しかも、時枝は、その「紐帯の如きもの」は、単語において、詞・辞のように分類できるというのである。


現実嵌入
それは、この紐帯によって、現実と言葉とが関係をもつということではない。現実と言葉とは始めから関係していて、それを更めて言うのは無意味である。ここでいう紐帯とは、それによって、「現実」が「言葉の世界」に嵌入するという意味である。換言すれば、「現実」が「言葉」の一部になる、ということである。私はそれを日本語における「現実嵌入」と呼びたいと思う。私はこれが、日本語を非文法的言語にしている一番大きい理由であると考えている。p122
時枝の「辞」は、「言語主体(話し手・書き手など)の主観的判断、感情などを表現して、文における主体的判断表示の機能を果たす」ことで、話し手、或いは、書き手の捉えている「現実」を表わすように機能する。森の言う「紐帯」は、「「現実」が「言葉の世界」に嵌入する」ような、まさにその状態を指しているように思う。

森は、言語学者であり、哲学者であった。時枝のような文法の研究者ではない。どちらかといえば、実践的に日本語を教える立場の人であった。しかし、フランスでの生活において外国人に日本語を教えているさなか、あることに気づく。それは、日本人同士の会話であれば自然に行われていること。つまり、話し手の表現のなかに投影される話し手の捉えている「現実」が、日本語で話そうとする外国人の表現のなかにうまく投影されていないということであった。


母国語

森の場合、フランス語に堪能になればなるほど際立つような、日本語で考える「思想」のなかにある「現実」と、西洋思想のなかにある「現実」との違和感を感じていたようである。

仮に、外国人がある事柄について外国人同士で話し合うような状況があったとしよう。そのとき、外国人は、自分が捉えている「現実」を自分たちの言語、つまり、母国語でうまく表現できないのだろうか?

森は、決してそのような立場を否定していない。むしろ、「経験」について言語で定義するとき、つまり、この場合「思想」について語ろうとすることになるが、そういうときに、日本語の傾向性として、「回帰的常住性」のようなものがあることを指摘しているに過ぎない。

実際、広義には、以下のように言っている。
一つの言葉を話す民族あるいは国民の持つ「経験」は大ざっぱに幾つかの類型に分けて考えてみることが出来る。それは、それぞれの民族がもつ《深い傾向性》(Tendances profonds)によって、方向付けられ、特徴づけられる。p73
母国語とは、それを話す人たちにとって、そのような性質をもつものではないか、と思う。

日本語はいかにつくられたか

明治の思想

小池清治は、『日本語はいかにつくられたか』を日本語の歴史をとてもコンパクトにまとめている。

小池は、夏目漱石の言葉を次のように引用している。p202
明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。『三四郎
ここでいう思想は、必ずしも哲学的な思想ばかりを指すものではないけれど、西洋文明の根底に流れるものを象徴するものであることは疑いようのないことだと思う。


和英語林集成

文明開化という動乱の時代を日本で過ごしたJ・C・ヘボンは『和英語林集成』を編纂した。『和英語林集成』は、所謂、和英辞典にあたるものである。

小林によると、『和英語林集成』は、初版が慶応三年(1867)、再版が明治五年(1872)、三版が明治十九年(1886)に刊行されていて、そこに登録された総語数は、初版、再版、三版がそれぞれ、20722、22949、35618となっている。
松村明は第三版で増加した語を調査し(『和英語林集成 第三版』復刻版 講談社 昭和四九年五月)、「J」の項では、「事物・自治・示談・事業・辞表・時間・事件・実行・事故・人民・人工・人類・人生・辞書・実際・自炊・実地・自転車・実物・滋養・慈善・女学校・女子・女史・授業・従事・巡査」などが増加したと報告している。p166
初版と三版の間のおよそ20年間に追加された語は、約一万五千語になる。

第三版で追加された語は、今日、普段の生活において欠くことのできないものばかりのものである。


カタカナ英語

『和英語林集成』を編纂したヘボンは、ヘボン式ローマ字の創始者でもある。

現代社会では、ヘボン式ローマ字の読み取りによる「カタカナ英語」のようなものが散乱している。文明開化のときに追加されていった語を思うと、現代社会には、なぜこれほどまで「カタカナ英語」が増えてしまったのか?と思う。

最近では、「PTA・TPP・UD・ICT・スマホ」などの略語が増えて、これらの語は、もはや符号のようになっていて、最初から何を指しているのか知らなければ、何を意味するものかわかりようがない。ただ読むことができるだけの、まさに「表音文字」である。

これらの語には、文明開化のとき、西洋文明を日本に取り込もうとしていた人たちが、それぞれの文明を基礎づけている西洋思想を一緒に取り込もうとしていたような、そういう苦労はない。つまり、既にあった生活のなかに新しい「思想」を少しでもはやく取り入れられるようにしようとして、意味のある文字、「表意文字」として生まれた漢字を当ててみせたような苦労はないのである。


仮借(かしゃ)

小池は、『日本語はいかにつくられたか』のなかで、日本語に文字が無かった時代、つまり、漢字が日本語として使われるようになった時代のことを詳述している。
意柴沙加(ヲシサカ)
今州利(コンツリ)
阿米久爾意志波留支比里爾波之弥己等(アメクニオシハルキヒリハノミコト)
これらは、六書(りくしょ)の一種「仮借(かしゃ)」と呼ばれるものである。漢字は、本来、表意文字であるけれど、その漢字の読みを当てて表音文字として利用する方法である。

暴走族が着ている服に刺繍で書き込んでいる文字「夜露死苦(ヨロシク)」とかも、分類するとすれば恐らく、「仮借」と呼ばれる表記方法になるだろう。

仮借とカタカナ英語は、その本質がとてもよく似ている。その読み方の先にある実体を知っていれば、それとわかるのだけれど、その先にある実体を知らなければ、なんのことだかさっぱりだ。


日本語にとって重要なこと

「最初から何を指しているのか知らなければ、何を意味するものかわかりようがない」そういう日本語がたくさん増えているのは、現実だと思う。

こういう状態からすぐさま、日本人が、これまで慣れ親しんできた日本語を喪おうとしていると言い換えることは乱暴であるけれど、「英語で学校教育を行うべきだ」と主張する企業経営者や、それに同調するような政治家が増えていることには、随分、身勝手な主張をするものだと思う。

こういう主張の背景には、平安時代の貴族が漢語で読み書きしたように、政治言語としての役割を英語に置き換えて見ようとする意図を伺うことができる。

しかし、紀貫之が『土佐日記』を書くにあたって、女性の立場になってまで、ひらがなと漢字を組み合わせたような、日本語や日本文化に宿る、貪欲なまでに、良いところがあれば取り入れようとする思想を見失ってはならないと思う。

そのようにして綿々と培われてきた、世界でも固有な文化として注目されている日本文化。それを支えているのは、日本語ではないだろうか。


デザインという表現

僕は、自分のことをデザイナーだと思っている。まあ、いろんなことに興味を持っているけれど、どのようにして意思疎通を図るかを考えて、この仕事に取り組もうとしている。その立場からすれば、文明開化の時に、西洋思想を咀嚼して漢字を組み合わせて新しい語を生み出した人たちも、僕のようなデザイナーも、同じような視点に立って物事を眺めているではないか、と思う。

まあ、だからこそ、いかにして日本語を作るのか?ということは、僕の中では、いかにしてデザインをするか?ということと同義だと思うのである。

2015年5月4日月曜日

回帰的常住性

回帰的常住性

森有正の書いた哲学書『経験と思想』のなかに、「回帰的常住性」p76 という言葉が出てきたので、色々と調べてみた(森が、日本人の「経験」や「思想」について説明するのに、この言葉を使うのだから、きっと押さえておくべき言葉なんだと思う)。

「回帰的」というのは、「北回帰線」とか「南回帰線」とかのように、「(太陽の軌道ように同じ位置にじっとあり続けている訳ではないけれど、)必ずそこを通過する、あるいは、そこに戻ってくること」を指している。

一方、「常住性」というのは、見出語としては見当たらない。どうやら、森の造語ではないかと思われる。

いろいろと探してみて、近しい表現として拾ったのは、「風性常住」という仏教用語だった。なので、この辺りから探ってみた。


風性常住

下記のページには、「風性常住」についての説法がある。
麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
風性常住、無処不周なり。
なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、
いまだところとしていたらずといふ ことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならむかこれ無処不周底の道理。
ときに、師あふぎをつかふのみなり。 僧、礼拝す。
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。
常住なればあふぎをつかふべからず、
つかはぬおりもかぜをきくべきといふは、
常住をもしらず、風性をもしらぬ なり。
風性は常住なるがゆへに、仏家の風は、
大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/dogen/dog15.html

この文章だと、現代人にはわかりにくいので、同じページに解説が書かれている。

更に、以下のページは、もっと砕いた表現がされていている。
http://sky.geocities.jp/zennotsudoi/2008report/h20report3.html


風が常に在ること

この言葉は、「風の性質は何処にでもある(風性常住)のだから、風が常に在るような状態になれるよう修行しなさい」という喩え話になっている。

この言葉は、「西洋的思考」からするとややピント外れな気がするけれど、「東洋的態度」からすれば、「なるほど」と思うところである。

因みに、「西洋的思考」というのは、ある言葉を聞いたとき、西洋人がその言葉の定義から学ぼうとすることに対して、「東洋的態度」では、東洋人がその言葉にまつわる経験的意味合い(教訓のようなもの)を引き出そうところがある、とする森流の哲学用語になっている。

いずれにせよ、ここから「常住性」といった場合には、「(ある特徴的な性質が)常にそこ(あるいは、それ)に備わっている性質」ではないかと当たりをつけてみる。


「回帰的常住性」であるもの

では、改めて、「回帰的常住性」という表現に戻ってみる。

この言葉は、「(ある対象の性質は、)じっと止まっている訳ではないけれど、(気がつくと、あるいは、いつかは)そこに必ず戻ってきていて、常にある特徴的な性質がそこにある」というような意味になる。

森は、この「回帰的常住性」という表現をつかって、「自然」について論じる。
自然は、あるいは自然に属する個物は、それの持つ人間生命との類似、すなわちそのもつ美しさと脆さ、時の間に過ぎ行くかりそめの姿によって深く人の心を打ち、と共に、それを見る者と共有しない、見る者を超える他の点、すなわちその回帰的常住性によっても、人にその脆さ、弱さを更に切実に思い起こさせることによって、人を感動させる。「もののあはれ」という情感は、こういう日本人の基本的感情、その究極的安定点を示す。p76-77
はて?日本人の「経験」や「思想」を説明する言葉ではなかったか?と思われるかもしれない。


「経験」の安定点

この段落に続いて、森は、以下のように書いている。
現代人の「経験」という感覚から言えば、こういう考えは、遠い昔の柿本人麿や山部赤人や『源氏物語』の世界のことのように見えるかも知れない。しかし一度その同じものが、現代の日本語や日本人の自然感情や人間関係の中に現れてくるのを見ると、それは我々に、我々の「経験」の本来の姿に対して深い反省を促さずには措かないのである。問題は、こういう感情が日本人である我々の「経験」の安定点になっている、ということである。このことの重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないと思われる。
要するに、我々、日本人の「経験」について語るにあたって、森は、我々、日本人が「自然」に対して抱いている「基本的感情(あるいは、究極的安定点)」を基礎づけとして呈示しようとしているのである。そして、日本人が、「経験」あるいは、「思想」と表現する時には、このように位置付けられた「自然」と同じように、対象が分解されていないような曖昧さを持つことを指摘する。

2015年4月20日月曜日

離散数学

連続的ではないこと

随分前のことになるのだけれど、ジムで知りあった方と話しているときに、「コンピュータ上で言語処理をするなら「離散数学」をやってみたらどうか?」と勧められた。

「数学」でも難しいと尻込みするところなのに、「離散」と前置きされる「数学」だともっと尻込みする人がいるかもしれない。実際、「離散数学」は、高校までの数学でも教えられることがない(筈)。

そもそも「離散」というのは、「連続的ではない」というような意味。じゃあ、「連続的である」ことが対義としてあるのだけど、それは何かと言えば、「離散的でない数学の全て」ということになる。

ざっくり言えば、コンピュータ上での計算は、全て「離散数学」の対象になる。だから、コンピュータが使われるようになって、「離散数学」の講義が大学などで行なわれるようになったようだ。


右か左か

デザイン学科出身の僕には、一見、無縁なように思われることかもしれないけれど、写真論や美学のような世界を突き詰めていくと、哲学、なかでも論理学や記号学が出てくる。

ここもざっくり言えば、なんとなく漠然と右派・左派と分類すると、中立派を自称する人が多数派になったりする。右か左という「連続ではない(状態)」は、自然界にとっては不自然で、「連続である(状態)」こそが自然なのかもしれない。

それでも学際領域、アカデミックな領域では、「連続的である」ところに、「連続的でない」境界を見つけて、右か左というように領域を分ける。

「コンピュータ上で言語処理をするなら「離散数学」をやってみたらどうか?」と勧められた理由は、まさにここにある。

学生時代にやっていた写真論もそうだし、あらゆる学問が、他の学問との境界を見つけては分けられてきたから、0と1から構成されるコンピュータ上では、全ての原理が「離散数学」で考えることができる。


自分から見えるあるモノとモノの関係

哲学は、「「自分から見えるあるモノとモノの関係」を表そうとする学問」だと思うんだけれど、哲学者という存在がドーンと前に出てくることが多くて、「自分から見えるあるモノとモノの関係」を忘れて、云々言ってる人も多い。

実際、数学も哲学から分かれた学問だという人もいる。人は、自然を観察し始めた頃から、不自然な、人工的な領域を切り開いてきたのかもしれない、と思う。

コンピュータを使って、様々な立場の人たちが繋がるようになってくると、「自分から見えるあるモノとモノの関係」をうまく表現することがとても大切だと思う。なにより、コンピュータで繋がっている時には、自分以外の他の人たちが見ているものがわからない。

「僕は右」、「私は左」と誰かが言っていたとしても、自分と比較するものがないときに、「右」も「左」も意味をなさないから、この時代においては、「「自分から見えるあるモノとモノの関係」を表そうとする学問」であったり、「離散数学」のようなものは大切だと思う。