ピエール・レヴィの《集合知(Collective Intteligence)》をまとめた興味深いチャートを見つけたので、少しばかり読み解いてみたい。
レヴィの洞察には、いつも深淵なものがある。
彼は、知識(Knowledge)を考えるのに、科学(Science)の対極に堅実(Wisdom)を置いて、その中間に芸術(Art)を置いている。
彼は、知識(Knowledge)を考えるのに、科学(Science)の対極に堅実(Wisdom)を置いて、その中間に芸術(Art)を置いている。
科学ー芸術ー堅実
このような図式を眺める上で忘れてならないのは、これらの用語が表しているものは、これらの用語を眺めている僕たち一人一人が持ち合わせた程度のものである、ということ。つまり、科学と言っても、現代社会の最先端のそれではない。
もちろん、チャートは、《集合知》がどのようなものであるかをまとめようとしているモノなのだけれど、僕たちは、自分のことに一つ一つの概念を置き換えながら、紐付けながら、こうしたチャートを読むことしかできない。だから、ここでは抽象的な科学というより、自分自身がとることのできる科学的な態度という方がわかりやすいだろう。同様に、堅実というのは、自分自身がとることのできる賢明な態度に他ならない。だから、本来、純粋な論理である科学であっても、自分自身が持ち合わせている程度の科学であることを肝に命じておく必要がある。
等身大の自分
デザインされたものが大好きな僕たちは、商品やサービスを選ぶとき、自分の知りうる知識に照らして、最良の選択をしたと思っていないだろうか。
特に、昭和生まれの日本人は新しいものが大好きで、いとも簡単に乗り換えてしまうところがある。かく言う僕も昭和生まれなのだけど、平成生まれの人と話していると、等身大の自分を持っていることに気づかされる。
僕の周りにいる昭和生まれの人たちに言わせると、高望みがないというような表現も出てくるのだけど、僕の見方は少し違う。彼らの生きている社会が、広がり過ぎていない程度の大きさに思えるのだ。これに対して、昭和生まれの僕たちは、本当に知りもしないことを知っているかのように語りはじめるところがある。
(レヴィは、チャートのなかで、ナレッジ(知識)に対応させて、メッセージを挙げている。さらに、メッセージの項目のなかにメディアを挙げている。)
昭和生まれの人たちが生きてきた世界では、マス・メディアのようなメディアが強すぎるほどに意識されていた(る)ように思う。平成生まれの人たちが、世界のなかにいる自分に気づき始めた頃、携帯電話やインターネットがあって、手紙や電話だけだったパーソナル・メディアが進化を始めた(メディアについては、別の機会に触れたい)。
同じ集落に暮らしている人たち
彼らの生きている社会は、パーソナル・メディアを中心に繋がっていて、人間関係のなかにあるようだ。社会という言葉の語源は、「同じ集落に暮らしている人たち」らしい。彼らの生きている社会では、その言葉の通り、遠くにいるはずでも決して見えてこないような人たちは、その中に含まれていないのだ。学校の先生が伝えることだからと言って、鵜呑みにされない。細かな裏事情に至るまで、パーソナル・メディアがなにかと補ってくれる。
マス・メディアが強すぎる時代に生きてきた昭和生まれの僕たちは、テレビや新聞がそのように言っているのだから、と鵜呑みにしてしまう傾向がある。ところが、インターネットを通じて世界中のマス・メディアが伝えるないように触れることができる時代になってみて気づかされるのは、日本の国内向けにされた報道があまりにも画一化されているということではないだろうか。
彼らには、ある意味で、虚栄心のようなものも無くて、嘘がない。堅実であること、賢明な態度であることが、等身大の彼らを現している。まさに、僕の印象と重なる。
科学が好きでありたいと思っても、科学について一通りの知識を積み上げることはとても難しい。だけど、科学に詳しい人に思われたい。そうなると、知ったかぶりになることもある。いや。だからこそ、科学を語ろうとして、科学的な態度からかけ離れていってはならない。だけどだけど、一歩間違えると、簡単に踏み外してしまいやすい状況がある。パーソナル・メディアは、そういう状況に手厳しい。
既成概念を打ち壊す
仕事でも、理論を持ち出す人たちのなかに堅実でない、おまけに、科学的でもない人がいたりする。そういう人が持ち出す知識が芸術的であるかどうかは、あえて横に置いておくが、芸術が既成概念を打ち壊す行為であることを確認しておこう。
レヴィが、芸術を科学と堅実の間に置くのは、そのような意図があるのではないだろうか?
元々、日本人が何かを愛でるような態度というのは、科学(Science)と堅実(Wisdom)の間にある、そのような態度に近かったのではないだろうか?
もちろん、流行り廃りに乗せられやすいところが、日本人にずっと前からある。そのことは否定しようもない。季節の変化を通じて旬を好むような態度とも混同されやすいが、そういう気質をもってして、流行り廃りのなかで失敗を重ねて、日本人は堅実さを身につけていく。その季節のなかで、旬であるものは試行錯誤を通じて定着していくのだ。
時空を超えて、日々洗練されていく日本人の感性は素晴らしい。
世界の様々な料理が日本人の味覚に会うようにアレンジされていくこと一つとっても、芸術的だと思う。自分たちの好みに最適化できるものは、既成の概念があっても、どんどんと打ち壊されていく。
メディアをデザインする
インターネットのようなメディアが生まれて久しい。普及率だけ見れば相当なものだと思うのだけど、テレビや新聞に振り回される人が恐ろしく多いことがずっと気になっている。もしかしたら、昭和生まれの似非理論派がでかい声を出しているから、平成生まれの人たちの見ているものも、そのようなメディアを通じて共有されずにいるのかもしれない。マス・メディアは、産業でもあるから、自分の知っていること以上に理屈を振り回す実力者という人たちが跋扈しやすいこともあるのだろう。
そのように考えてみると、この時代にあったメディアがデザインされていないように思える。個人的には、平成生まれの人たちが、あるいは、昭和生まれでもいいから、そのような感性を持ち得た人たちが、少しでも大きな社会の中に自分自身を置いて、社会のために芸術的に思うことをしてみて欲しい。
きっと、一つ一つの判断のなかで、この時代にふさわしいエスプリが効いてくるんじゃないかと思う。