2011年11月15日火曜日

共同社会と利益社会


ゲマインシャフト(共同社会)とゲザルシャフト(利益社会)では、知識を共有するのか、独占するのかで明らかに異なると思います。

エマニュエル・トッドが指摘したように、家族システムは、『世界の多様化』の根拠になっているように思います。そして、家族は、家族という同胞を守るための最も小さな単位のゲマインシャフト(共同社会)です。そして、地域社会は、これまで、こうした家族を単位に構成されていました。言い換えれば、地域社会は、部族であったと言えるのではないでしょうか。
家族システムでの知識の共有、経験の共有が、個々の価値観を形成し、さまざまな物事を理解するための概念基盤となり、社会を安定化させる言語や文化的コンテクストを生みだし、育んできたと思います。
僕たちは、核家族化の流れに乗って家族システムを細分化し、物理的に分散し、それぞれの都合に合わせた時計を持つようになった。その結果、個人消費の快楽に身を委ねて、家族と行なってきたような、知識の共有を怠ってしまったのかもしれません。
僕たちの得ることができる知識は、コンビニエンスで、グーグルで検索し、アマゾンで購入し、フォロワー数で評価され、プラグアンドプレイできるものと信じいるかもしれません。
でも、知識と経験の間には、大きな隔たりがある。それは、アリストテレスが『形而上学』で述べていたように、個別の現実に対応できるかどうかということ。経験には、「この子には、こうしてあげるといいのよ」といった母親やかかりつけの医者が知っているような、より深い、より個人(個別)最適な知識があります。
多くの人が不安を抱く背景には、自分だけの事情、自分の関心がある事情に個別最適した知識を持つ人が不在な状況があると愚推します。
現代社会では、『経験を伴った知識の共有化される範囲』は、『地域』ではなく『知域』なんだろうなあ、と思います。玉置さんの指摘されていた『知域』という言葉の中に、僕がハッと息をのむような思いにさせられるのは、仮想的な家族システムのような影が見え隠れすることです。

なぜ、ノマドでありながら、シェアハウスなのか?

僕たちが、新しい世界に踏み出していることは間違いないと思います。その世界は、自分だけが「面白い」と感じる美学的なセンスで溢れているのかもしれません。だから、本当の家族にも、その知識がどのような系譜で得られたものか、うまく説明できないかもしれません。特に、科学的な知識というものは、もはや記号や呪文のように思える言語を駆使して生み出したメタな言語である為に、本当の家族にはわかってもらいようがない。それほど、知識の共有は、知識の偏愛の中で、偏ってしまっている。しかし、自分たちが身につけた知識を目の前の現実に応用したい、個別最適してみたい。そして、そこに経験が生まれるのを誰かと共有していたいのではないでしょうか。

どのような「利」を持って、個を「益」するのか、『利益社会』は大きく変わろうとしている。金銭という単位では、失われた「経験」の場を取り戻すことができないのではないのでしょうか。

古代ギリシアのポリス市民は、「家族内における生命の必要〔必然〕を克服すること」と考えて、「暴力」を肯定しました。そして、自らの「経験」の場をポリスの政治的活動に求めました。なぜなら、そうすることによって初めて、ポリス市民は、自らの存在をリアルに感じることができたからです。卓越した能力を持ったポリス市民は、そうしなければ、家族の中では、ただ得意な人間であっても、理解者が得られなかったのです。僕は、ポリス市民が私財を投げ出して、ポリスの政治的活動に参加しようとした背景を現代社会の物差しで測ることは難しいと思っていましたが、ここにきて、どのような「利」であったかを考えるにつれて、見えてくるものがあります。

僕たちは、金銭がさまざまな代替物に置き換わるという「利」をもたらす事を知っています。しかし、共有された「経験」が「利」をもたらす事をなかなか公言しようとしません。でも、僕たちの捉えていた「利益社会」は、概念基盤を変質させようとしているし、ある「知」に興味を抱く人たちが得ようとしているのは、その「知」を「経験」に変えることなんじゃないでしょうか。そして、「経験」は、冒頭に述べた「独占」という概念に生理矛盾を引き起こしてしまうんだと思います。

原発事故をみて、ウォール街占拠をみて、原子力や金融工学の知識は、「知」を共有できても、「経験」を共有できません。911や311では、「経験」を共有できても、「知識」の部分は隠されてきている。

現代のマスメディア報道は、そのように考えてみると、「生命の必然」とも思えるような「知」を与えてくれません。それが、家族ではなく、国家を存続させる為の「必然」だと言われても、僕自身は納得がつきかねます。でも、その因果関係を証明する方法はない。だからこそ、ソーシャル・メディアによって、ひとびとが知識を共有し、体験を語り合い、あえて「暴力」を選択しているような時代を垣間見ている思いです。

僕は、社会は共同体であると思っています。それは、家族システムのような概念基盤を核にして、言葉を生み、育み、僕たちを守ってきました。だからこそ、共同社会を否定するつもりはありません。一方で、利益社会は、さまざまな物質的循環を効率化してきました。しかし、「金銭」という尺度だけでは、国全体に張り巡らされた流通網も、部分的に壊疽させてしまうような状況をつくり出している。国家に帰属する僕たちが、自分たちの身体の一部を壊疽させることを必然だと選択することは、麻薬に取り憑かれた患者と同じで、間違っています。

国会にまかせて考えてもらうのではなく、「利益」のあり方を考えるべきだと思います。それは、「金銭」によるものなのか、「知識・経験」によるものなのか、は一つの論点になるんだと思います。

その上で、もっと多くの議論をして、僕たちの「共同社会」の概念基盤を明確にしておくことが大切だと思います。

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