僕たちは、些細だけれども、無数な罪の意識によって欲求を抑制しながら、「7つの大罪」のような致命的な大罪を起こさないように生きている。
松岡正剛の「フラジャイル」には、
本書で「弱さ」とか「フラジリティ」という時には、そこには多様な意味が含まれる。弱さ、弱々しさ、薄弱、軟弱、弱小、些少感、瑣末感、細部感、虚弱、病弱、稀薄、あいまい感、寂寥、寂寞、薄明、薄暮、はかなさ、さびしさ、わびしさ、華奢、繊細、文弱、温和、やさしさ、優美、みやび、あはれ、優柔不断、当惑、おそれ、憂慮、憂鬱、危惧、躊躇、煩悩、葛藤、矛盾、低迷、たよりなさ、おぼつかなさ、うつろいやすさ、移行感、遷移性、変異、不安定、不完全、断片性、部分性、異質性、異例性、奇形性、珍奇感、意外性、例外性、脆弱性、もろさ、きずつきやすさ、受傷性、挫折感、こわれやすさ、あやうさ、危険感、弱気、弱み、疎外感、愚者、弱者、劣性、弱体、欠如、欠損、欠点、結果、不足、不具、毀損、損傷…。
おそろらくは辺境性、辺縁感、境界性といったマージナルな感覚もここに含まれる。そのほか、ともかくも「弱々しいとおぼしい感覚や考え方」のすべてが本書の対象となる。それらを一言で何とよぶべきかわからないので、私としては自分がかねて気に入っている言葉で、取り敢えず「フラジャイル」とか「フラジリティ」という言葉をえらんだのだ。
という記述がある。
僕たちは、「良い」という漠然とした価値観から少し外側にはみ出す感覚を持つ時、どこかフラジャイルな感覚を感じているのではないだろうか?勿論、それは、「7つの大罪」とは明らかに異なって、とてもとても小さな後ろめたさだと思うから、「罪」という言葉が当てはまるなんて思わない。
これは社会的な弱さというものである。そこには、ありもしない健常性や正常性という平均値が想定されていることが多く、社会の枠組みを支える為の常識や良識が斧をふるっている。それゆえにその平均的な正常性から少しでも変異したり、ずれた者には、時に悪意を持って弱者の規定がくだされる…
これは弱さや弱者はもっぱら排除の対象とされる歴史を背負ってきた。弱さは異質性や異常性として理解され、ケガレやキヨメの対象にされる。我々の子ども時代にも体験したことであるが、背が低い、顔が黒い、喋り方が変である、汚い町に住んでいる、病弱である…こんなことのすべてが弱いものいじめの標的となる。
松岡正剛のいうフラジリティは、「7つの大罪」のような大きな過ちを犯すはずはないと思っていても、僕たちの心が些細な罪の意識、それは、ちょっと正常なところから外に出てしまうような行為なんだけど、集団の中から批判を受けるかもしれない、という価値観となっているように思う。
本来、価値観とは、自分自身の言動を自律的に制御する為の規範であるはずだ。然し、一旦、そのフラジャイルな性質を持つ(あるいは、そうした案じさせるような)言動の一片でも他者から知られるところになると、暴力が発せられる口実になることに注意しておきたい。
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