2011年12月31日土曜日

第三の目

今年も大晦日になりました。

今年は、今まで以上に「第三の目」の大切さを気づかされることになりました。この「第三の目」について説明させてください。

人間には二つの目がついています。僕たちは、右の目と左の目から見えるわずかな違いを使って、僕たちが向き合っている世界を立体的に見ています。たかだか10cmほどの違いなのですが、おかげで、みかんの房についた白いスジを上手に剥くこともできるし、人混みのなかで、誰が一番自分に近いかを素早く判断して避けて歩くことができます。どちらの目が第一か、第二かは、右脳や左脳のような、より活発な目というのがあり、人それぞれに異なります。

そして、「第三の目」というものがあります。勿論、「第三の目」というのがある人は、普通いません。もし、ある人がいれば、是非教えてください。しかし、そのような「第三の目」を心の目という人がいます。

よく言われるのは、「(プレゼンテーションなど)誰かに話をする時に、自分自身が話していることを客観的に見れる目線を持ちなさい」という意味を指しているものです。

日本人は、この「第三の目」がとてもよく機能しているように思います。所謂、「気づかい」というのは、まさに「第三の目」がなせるスーパーセンス(超感覚)だと思います。自分の視界に入っている人を気づかうという意識は、本当に大切にしたいものです。もっとも、この「気づかい」が、単に、自分以外の人に、自分がどのように映っているんだろう?という「主観的に観る」ことになっている場合には、「客観的に見れる」こととは異なります。

今年ほど、さまざまな映像を見ていて、「このように(主観的に)観ています」という強い印象の映像が繰り返し流れた年はなかったと思います。映像は、撮影者がレンズ(単眼)を通して、意図して切り取られたモノです。つまり、「主観的に観る」ことになっていて、「客観的に見れる」こととは異なります。だから、このような映像を見続けると、なぜそんなものに凝視しなくてはいけないの?と生理的に嫌悪することがあったとしても、それは、自分が望まないモノを見せる手段(メディア)の特性の為に、逃れようがないのです。

終戦後、7年を経て1952年に発表された、小説『二十四の瞳』は、戦争というものを十二人の子供たちの目を通して見えるように描いています。

1984年、郷ひろみというアイドル歌手がうたった『2億4千万の瞳』は、歌詞を読むと、「この星の片隅の2億の瞳が素敵な事件を探してるのさ」となっています。あたかも、その素敵な事件の中心に自分がいて、自分に向けられている瞳が2億4千万個あるという意味に思えます。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36026

『二十四の瞳』の瞳が向いている視線の先を気にしていた「おなご先生」は、「第三の目」よりももっと多くの目線を意識していたことになります。一方、郷ひろみは、『2億4千万の瞳』が自分に向けられているように意識していたのかもしれません。

僕は、「評価」という言葉を何度も考え直すことで、この「第三の目」に辿り着いています。それは、「おなご先生」が注意を払い、意識し続けた子供たちの目線に対する「評価」であり、「郷ひろみ」が唄ったような自分に注意が向けられ、自分に与えられる「評価」とは随分と違う。

誰の目線がどこへ向けられているのか?

「第三の目」を考えていると、どうも、僕たちが求めている答えのヒントがあるのかもしれない。そのように思ったりするのです。

皆さんが良い年を迎えられることを祈っています。(●`エ´)ノ


2011年12月21日水曜日

フランスの家族構成別世帯

フランスの家族構成別世帯を見ていると、とても興味深い傾向がある。

単身世帯

フランスの単身者は、全体の33.3%にも及ぶ。つまり、フランス人の3世帯に1世帯は、単身世帯であるということだ。フランス人の成人年齢は18歳なのだが、データからは、18歳を過ぎると単身者として生活を始める傾向が強くなることが読み取れる。また、その場合、男性よりも女性の方が多く、フランスでは、5世帯に1世帯が女性の一人暮らし、または、子供との生活を営んでいるように思われる。


ひとり親世帯

フランスでは、少子化対策が成功しており、2006年には2.005人の出生率になっているので、子供が減っている訳ではないが、子育ての保護政策があることもあり、ひとり親世帯が増えてきている。理屈だけでいえば、出生率が2人を超えれば、国家としての人口減少は歯止めがかかる。つまり、子供を産むには男女2人の親がいるので、2人の子供がいれば、その親が死んでも社会に存在する人口は変わらないはずである。ただし、出産時期が高齢化したり、平均寿命が伸びたりすることで、人口の代謝速度が変化しないものとする。


核家族化を超えて、個人化が進む世帯

このデータが顕著に表わしているのは、フランスでは、女性を中心に個人化が進んでいるということ。たとえば、世帯あたりの人数が増えれば、その世帯が食事や行楽に出掛ける場合、一緒に行動するはずである。しかし、そのように一緒に行動を共にする単位は、世帯ではなく、友人などのグループになってきていると考えられる。

より具体的な実態を把握するには、行動手段がどのように変化してきているのか、一人一人の生活時間がどのように使われているのか、などを調べていく必要があるだろう。

実際、フランスでは、車の保有率が低下してきていることがあげられている。都市交通手段の発達がもっとも大きな影響を与えていると思われるが、同じ距離を大勢で移動することに比べると、個人の移動に車を使うことは割高になってしまう。フランスでも、少人数向けのコンパクト車が需要を伸ばしてきていることからも、そのような個人単位での移動が増えてきているのではないだろうか。


個人化が進む日本の世帯構成

日本でもフランスでの状態と同じような傾向があるように思われる。但し、日本の統計資料では、男女間の差を伺うことはできないので、その辺りは、僕たちが周囲の友人などから体感的に感じることで補完して想像するしかないだろう。


http://www.garbagenews.com/img11/gn-20111219-10.gif


機械領域

機械領域

インターネットのようなサイバー空間を通じて、たくさんの人々がコミュニケーションを行なうようになってきたことで、そのような人々が手紙や電話のように気軽にコミュニケーションを楽しむような空間ができてきている。こうした空間は、サイバー空間の特殊な利用方法でしかないのだけれども、これ以前のサイバー空間がアプリケーション・サービスと呼ばれるような特定の目的を持って設計されたものであったことに対して、コミュニケーションそのものを目的とした空間として機能し始めている。

つまり、これまでの現実空間において、公的領域と私的領域と呼ばれる領域のほかに、サイバー空間の中には、こうした特殊なコミュニケーション空間が存在するようになってきているのだ。しかし、サイバー空間そのものは、一部の人々たちによって管理、制御されている機械でしかない。そのため、僕は、この特殊なコミュニケーション空間は、機械領域として、公的領域とも、私的領域とも区別して考えるべき領域だと思っている。まだ、多くの人たちは気がついていないのかもしれないけど、起動ボタンを押せば、人間には敵わないような驚異的な力で世界の隅々までひとつの色に染めあげてしまうような機械領域である。

この機械領域の部品的な要素には、職業的な人間が含まれることがある。こうした人たちは、自分の意図ではなく、職業的な役割から、多くの他者に向かってメッセージを投げかけてくる。彼らは、コミュニケーションを通じて、自分たちのサービスを広く普及させるという役割をになっている。ときどき、彼らの心(内的価値観)が、美意識や倫理的な側面から、そのような意図を持ったメッセージの投げかけに疑問や躊躇を挟む事もあるが、職業によって金銭を得るという必然性から、そのような思考に留まることを回避させてしまう。少なくとも、このような職業的な人間にとって、サービスを利用するすべての人が必然性の他者であることはかわらないので、機械領域の中で部品のような役割を演じている事を知りつつも、この人たちは、メッセージを発信する作業を続けている。

どれだけの人が、機械領域という空間を意識できているのか定かではないが、現実空間に存在する公的領域と私的領域とは、異なった空間であることは間違いない。そして、もっとも強烈な問題が起こるのは、アクセス禁止というような機械領域から排除することが、別の職業的な人間の躊躇のない操作で実行可能であるということ。

機械領域は、ほかのシステムと同様に、一度サービスが開始されると停止することはありえないと思ったほうがよい。彼らを停止に追い込むことができるのは、経済的な原理だけだ。つまり、サービスを利用している人たちが利用することを止めれば、それだけで停止に向かって進むことができる。僕らのマインドセットは、起動ボタンを押すことはできないが、機械領域におけるさまざまなサービスの停止ボタンになることができる。


大人と小人

(以下にあげた定義は、一般的な大人と小人のような基準から読むと多くの誤解を招くかもしれない。それでも、ひとつの方向性を示す為に、このような境界を提示しておく。)


大人

大人とは、フェリックス・ガタリに言うような、
愚かな小児的コンセンサスを追求するのではなく、これから大切なことは、相違を掘り起こし実在の特異的生産をはぐくむ
ことができるような人を指している。


小人

これに対して、小人とは、蓋然性の他者も必然性の他者も区別がつかない状態にある。

なごみと気づかい

なごみ

気心の知れた仲間のような存在でも、どこか刺々しく応対してしまうようなときがある。そういう時に、必然性の他者は、僕のことを本当によく知っていて、たわいのないようなことから僕をなごませてくれる。


気づかい

蓋然性の他者は、必然性の他者と異なって、僕のことを本当によく知らない。無神経だと思うようなことばを真正面から投げつけてくるようなことも起きたりするのだが、当の本人は、そのことに一向に気がついていない。彼の注意は、最初からまったく別の方向に向けられていて、もしかすると、こういった場合、彼の中では、僕は、無関心の他者とさほど変わらないような存在であり続けているのかもしれない。いや、恐らくそうだろう。


なごみと気づかい

なごみと気づかいを使い分けることは、なかなか難しい。彼も、僕も、同じように、それぞれを必然性の他者と認めていないことが起こるからだ。インターネット上のコミュニケーション・システムのような機械領域は、このような主観の在処を明確にせずに、履歴から計算を行なう。言語解析技術だけならば、コンピュータが間違って感情を理解するようになるかもしれない。然し、コンピュータでさえ、表情をはじめとする生態的な変化を読み取ることで、人間を知ろうとしている。

なごみは、そこにいる人それぞれの人間性を経験的に知り得た関係の中でつくられる状態だと思えるし、気づかいとは、なごみとはまったく異なった感覚を中心になって行なわれるべき表現だと思う。

2011年12月11日日曜日

セレンディヴィディ

自分が意図していない時に、何かの偶然に知り得るような発見がある。こういう発見を「セレンディヴィディ」というらしい。


セレンディヴィディ

少しひねくれたように思われるかもしれないが、僕は、そのような発見の場合、もともと、ある意味に当てはまる単語の存在を知らなかっただけではないかと思っている。つまり、そういう発見をしたと喜んでいる時には、たいていの場合、単語と意味が対になっていなかっただけのように思う。

だから、このような感覚を自分以外の人との間に感じる、所謂、「共感」というのは、最初からそれぞれの価値観で通底しているような尺度があってこそ成り立つと思う。たとえば、相手の脇腹をちょっと小突いて、相手の注意を特定の者に向けさせるような「ナッジ(Nudge 気づかせる)」のような行為は、同じ価値観の上で話していなければ、単なるチョッカイのようになってしまう。

実際、新奇なモノに対して、よく知りもしない、よく考えもしないうちから、価値判断をくだすようなコトが多く。そういう場合に、「セレンディヴィディ」のように自発的に気づくことも、「ナッジ」のように誰かに気づかせてもらうようなことも起こりそうにはない。


ソーシャル・ネットワークにおける「蓋然性の他者」の存在

ソーシャル・ネットワークにおける「蓋然性の他者」の存在は、そのような価値観を共有できるような存在ではないかと思う。そして、「蓋然性の他者」の存在に気づいた瞬間から「必然性の他者」へと変わるまでの時間をどのように捉えることができるかが、実はとても大切になろうとしているように思う。

人は、誰かと話をしていると、相手に自分の考えを適切に伝えようとすることで、自分の考えをより具体的にしたり、簡潔にできたり、あるいは、適切な事例を発見することができたりするように思う。

ソーシャル・ネットワークには、「蓋然性の他者」だけでなく、「必然性の他者」が一緒にいるから、このような状況の中では、「知域」は思わぬところで広がっていくことになるように思う。このような驚きは、やはり「セレンディヴィディ」と表現しておく方がいいのかなと感じさせる。


「無関心の他者」

それでは、ソーシャル・ネットワークには、「蓋然性の他者」と「必然性の他者」だけで満たされているのかというと、実は、その大多数が、「無関心の他者」と呼ぶべき人とでしめられているように思う。そして、実は、このような人たちが、本当の意味で、「セレンディヴィディ」のような経験を「共感」させてくれる人たちではないのかと思う。

現実世界では困難なことだけれど、ソーシャル・ネットワークには、このような「無関心の他者」の存在を確認する方法はいくらでもある。もっとも簡単な方法は、自分の知人がどのような人たちと会話をしているのかを端から眺めてみればいい。そうすると、そのような人たちは、僕に対してこそ興味を示さないが、多くの人たちと楽しい時間を過ごしている。そして、彼らが僕に対して無関心であるように、僕もまた、彼らに対して無関心であることに気がつくべきだろう。

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このような人たちに対して、「気づかいを持たない(care-less)」であることが、僕たちの世界の広がりを妨げているようにさえ思う。では、なぜ、「無関心の他者」に見えるような人たちがこれほどまでたくさんいるんだろうか。

蓋然性の他者

蓋然性の他者

僕たちは、この世界が多くの人びとによって作られてきたと知っている。そうした人々というのは、自分の周りにいるあの人、この人といった特定の人だけではなく、僕たちはその存在について何も知らない、そのうえ、正確に数え上げることさえできないほど無数である。しかし、間違いなく、彼らは存在するはずである。僕は、こうした「存在するはず」と仮定することのできる他者の「蓋然性」に着目したいと思っている。

ソーシャル・ネットワーク上には、自分の持ち合わせない知識や技術を持った人がいるはずで、そうした「蓋然性の他者」が、自分の経験を補完してくれることを僕たちは、経験的に知っている。

僕たちは、これまでも、この「蓋然性の他者」が作り出した世界に住んでいる。しかし、こうした「蓋然性の他者」の存在を確認することはできず、本や制作物を通して、その本に書かれた記述から想像していたに過ぎない。勿論、本も制作物も、誰かが作り、誰かがそれを自分の眼の前に運んだからこそ、それらは、僕の眼の前にある。

インターネットによって、そうした「蓋然性の他者」が突然僕たちの眼の前に現われる可能性を持ち始めたと思う。すくなくとも、ソーシャル・ネットワークと呼ばれる世界には、このような出会いの可能性で満たされているのだ。

2011年12月10日土曜日

経験を補完するソーシャル・ネットワーク

僕たちは、 ソーシャル・ネットワークに多くの可能性を見いだしている。その可能性を大きく広げるには、情報がなによりも欠かせない。

もっとも、情報とは漠然とし過ぎている。だから僕は、この情報を、知識・技術・経験という3つの要素に分けて考えてみることにした。


知識と技術と経験の違い

僕たちは、文字から知識を得ることができても、技術を得ることはできない。技術を得るには、身体的な修練や実践が必要になるからだ。文字から得ることができるのは、ただの知識に過ぎない。

同様に、知識や技術から経験を得ることもできない。

アリストテレスは『形而上学』の中で、技術的知識(ノウハウ)のような概念を使いながらも、知識や技術から、経験をあきらかに区別している。

医者は、風邪の治療方法についての知識を持っている。どのようにすれば、その知識を治療としていかせるかを学び、実践する。しかし、特定の患者には、その方法が必ずしも有効でないことを学ぶには、経験が必要になる。

知識や技術が、全体に対して普遍的であることに対して、経験は個別で考える必要がある。

学問や技術・武芸などの技術的知識を練り磨くことを「修行」というが、山伏や阿闍梨は、このような能力を磨くことを「験(げん)を積む」といった。僕たちが「経験」と表現することは「修行」と呼ぶほど強く意識した行為ではないけど、知識や技術を無意識に練り磨く行為であることは納得できる。

現代社会では、経験科学と呼ばれる学問があるらしい。ジンクスやアノマリーは、そうした経験科学のように捉えられている。ジンクスは、因縁のように思われる事柄を指すが、精神的な暗示効果が大きいように思われる。スポーツ選手は、同じユニフォームの色や前日の食事など、小さなジンクスを大切にしたりするらしい。また、アノマリーとは、株式市場などでの経験則である。理論では説明できないが経験的には説明できる市場変動の法則のことであり、たとえば、「ジブリの法則」などが有名である。

NSJ日本証券新聞の11月25日の記事
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☆12月9日の日本テレビ系金曜ロードショーの放送作品が、当初の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」から「天空の城ラピュタ」に変更された。市場の一部で金曜ロードショーでスタジオジブリ作品が放映されると、その日もしくは週明けの株式や為替市場が大荒れになることが多い、というアノマリー「ジブリの法則」がささやかれており、今回も要警戒との見方も出ている。(Q)
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ところが、このような経験科学は、実際にやってみなくては、あるいは、起こってみなくては、効果が得られるかどうかわからない。そのために、経験科学は、「験をかつぐ」という言葉があるように、吉兆を暗示する出来事のように捉えられることも少なくはない。

それでも、経験が大切なことは、過去の状況と同じことが再現される場合に、その時の経験を生かすことが求められる為である。


知識・技術の広がり、経験の深さ

文字を読み書きする能力が人に備わっていることを表す割合を「識字率」がある。「識字率」が高いと、より多くの知識を吸収することが可能になる。「識字率」は、知識の広がりを計る上でとても役に立ちそうである。

知識に基づいて実践される割合を「普及率」として表現してみよう。当然のことながら、技術はじめて試されるのは、実践にほかならない。だから、スポーツなどの実践を欠かすことのできない分野においては、「普及率」は、実践の広がりを計る上で役立ちそうである。

では、経験はどのように考えるべきだろう。

経験には、「識字率」や「普及率」のような参考になる数値はあるのだろうか?前述したように、経験は、すべての事柄に対して当てはまる普遍的なものではない。むしろ、個別に対応できる為の知識と技術を別途要求することになる。だからこそ、経験が重要であることは間違いないはずだ。このような経験値は、単純に何かができるとか、何かをしたという数値で表現することは、極めて難しい。

僕たちは、経験を表現する時には、経験が浅いとか深いといった表現をするように、それぞれの個人の経験を量的に表現していることは間違いないだろう。とはいえ、そのような表現をすることを知っていたとしても、僕たちが、他人の経験の深さを計る適当な手段を持っているかというと、とても怪しくなってくる。

もっとも、自分が一度なりとも経験していることについては、他人が同じ経験を経て、ある種の対策方法を知り得ているかどうかを見分けることができるように思う。そして、その対策方法は、通常の知識・技術ではなく、ある特殊な知識・技術を用いることであったりする。


エヴァンゲリオンのシンクロ率

エヴァンゲリオンというアニメの中で、「シンクロ率(以下、同調率)」という表現が出てきた。エヴァンゲリオンとは、一見、巨大なロボットのように見える生命体を操縦士が操作する際、精神的な同調が前提になっている。つまり、「同調率」は、エヴァンゲリオンと操縦士の同調する割合を表わしている。だから、複数の操縦士も、エヴァンゲリオンの個体との「シンクロ率」がとても大切になる。

卓球のラケットのグリップを自分の手の大きさに持ちやすいように削ったりするように、道具というものは、ここの身体の異なりにあわせて、個別に最適化する必要がある。

エヴァンゲリオンというアニメの内容について知らなくても、個と個の関係においては、なんらかの形で最適化した状態がとても大切だったりする。経験とは、そうした「個別最適」のための知識・技術ではないだろうか。

勿論、どれだけ固有の「個」が存在しているのかを知ることは、極めて難しいことはいうまでもない。しかし、一旦、そのような「個」の存在が明らかになったとき、対応できる能力が経験であると言えるのではないだろうか。


経験の深さと同調率

経験に限っては、ある特殊な「個」に対する知識・技術が重要な役割を果たしていることは間違いないように思う。そして、そのような特殊な「個」の存在を多く知っていることは、「経験が深い」と言って表現され、ひとつの特殊な「個」についての知識や対応する為の技術は、「同調率」のように表現されるように思う。

このような確信も、自分自身だけに当てはめれば、うまく表現できているように思う。しかし、この確信そのものが、個人的な経験にもとづいているために、他の方には、ちゃんと合点がいくのであろうかと、なんとも漠然として仕方がない。もっとも、そうした個別の評価を表わすことが、経験を自覚する上でとても大切なことであることは間違いないと思っている。


ソーシャル・ネットワークの可能性

自分に足りない経験とは、ある特殊な「個」に対応する知識・技術であると書いた。なるほど。ソーシャル・ネットワークでは、そのようなをある特殊な「個」に対応する「知識・技術」を他者に求めているのではないかと思われる。つまり、ソーシャル・ネットワークとは、僕たちに欠けている経験を補完する手段となりうるのだ。

眼の前にある現象は、自分では理解できない特殊な状態、特殊な「個」であるのだけれど、ソーシャル・ネットワークには、多くの人たちが、それぞれに固有の経験を行なってきている。だからこそ、それぞれの人が偶然、そこに持ち合わせた「知識・技術」に照らして思い当たるようなことがあれば、自然と耳打ちしてくれる関係が心地よく思えるのではないだろうか。

もっとも、そうした他者が気づいて教えてくれた「知識・技術」は、自分自身が、易々と獲得できる「知識・技術」であるとは限らない。しかし、身近なサービスとして提供されていることが多いのも、現代社会の特徴であるし、きっかけさえ見つかれば、そうした「知識・技術」を補足するような詳細な情報が見つかりやすいのも、このネットワーク社会の特徴であるように思われる。


多様な問題への備えとしての「知域」

このように考えてみると、ソーシャル・ネットワーク上では、似通った価値観の人たちからは、特殊な「個」への知識・技術を期待することは難しいように思われる。

多様な問題にたいして備えることができるソーシャル・ネットワーク上の人間関係。これを「知域」として呼ぶべきなんではないだろうか。