今年も大晦日になりました。
今年は、今まで以上に「第三の目」の大切さを気づかされることになりました。この「第三の目」について説明させてください。
人間には二つの目がついています。僕たちは、右の目と左の目から見えるわずかな違いを使って、僕たちが向き合っている世界を立体的に見ています。たかだか10cmほどの違いなのですが、おかげで、みかんの房についた白いスジを上手に剥くこともできるし、人混みのなかで、誰が一番自分に近いかを素早く判断して避けて歩くことができます。どちらの目が第一か、第二かは、右脳や左脳のような、より活発な目というのがあり、人それぞれに異なります。
そして、「第三の目」というものがあります。勿論、「第三の目」というのがある人は、普通いません。もし、ある人がいれば、是非教えてください。しかし、そのような「第三の目」を心の目という人がいます。
よく言われるのは、「(プレゼンテーションなど)誰かに話をする時に、自分自身が話していることを客観的に見れる目線を持ちなさい」という意味を指しているものです。
日本人は、この「第三の目」がとてもよく機能しているように思います。所謂、「気づかい」というのは、まさに「第三の目」がなせるスーパーセンス(超感覚)だと思います。自分の視界に入っている人を気づかうという意識は、本当に大切にしたいものです。もっとも、この「気づかい」が、単に、自分以外の人に、自分がどのように映っているんだろう?という「主観的に観る」ことになっている場合には、「客観的に見れる」こととは異なります。
今年ほど、さまざまな映像を見ていて、「このように(主観的に)観ています」という強い印象の映像が繰り返し流れた年はなかったと思います。映像は、撮影者がレンズ(単眼)を通して、意図して切り取られたモノです。つまり、「主観的に観る」ことになっていて、「客観的に見れる」こととは異なります。だから、このような映像を見続けると、なぜそんなものに凝視しなくてはいけないの?と生理的に嫌悪することがあったとしても、それは、自分が望まないモノを見せる手段(メディア)の特性の為に、逃れようがないのです。
終戦後、7年を経て1952年に発表された、小説『二十四の瞳』は、戦争というものを十二人の子供たちの目を通して見えるように描いています。
1984年、郷ひろみというアイドル歌手がうたった『2億4千万の瞳』は、歌詞を読むと、「この星の片隅の2億の瞳が素敵な事件を探してるのさ」となっています。あたかも、その素敵な事件の中心に自分がいて、自分に向けられている瞳が2億4千万個あるという意味に思えます。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36026
『二十四の瞳』の瞳が向いている視線の先を気にしていた「おなご先生」は、「第三の目」よりももっと多くの目線を意識していたことになります。一方、郷ひろみは、『2億4千万の瞳』が自分に向けられているように意識していたのかもしれません。
僕は、「評価」という言葉を何度も考え直すことで、この「第三の目」に辿り着いています。それは、「おなご先生」が注意を払い、意識し続けた子供たちの目線に対する「評価」であり、「郷ひろみ」が唄ったような自分に注意が向けられ、自分に与えられる「評価」とは随分と違う。
誰の目線がどこへ向けられているのか?
「第三の目」を考えていると、どうも、僕たちが求めている答えのヒントがあるのかもしれない。そのように思ったりするのです。
皆さんが良い年を迎えられることを祈っています。(●`エ´)ノ
今年は、今まで以上に「第三の目」の大切さを気づかされることになりました。この「第三の目」について説明させてください。
人間には二つの目がついています。僕たちは、右の目と左の目から見えるわずかな違いを使って、僕たちが向き合っている世界を立体的に見ています。たかだか10cmほどの違いなのですが、おかげで、みかんの房についた白いスジを上手に剥くこともできるし、人混みのなかで、誰が一番自分に近いかを素早く判断して避けて歩くことができます。どちらの目が第一か、第二かは、右脳や左脳のような、より活発な目というのがあり、人それぞれに異なります。
そして、「第三の目」というものがあります。勿論、「第三の目」というのがある人は、普通いません。もし、ある人がいれば、是非教えてください。しかし、そのような「第三の目」を心の目という人がいます。
よく言われるのは、「(プレゼンテーションなど)誰かに話をする時に、自分自身が話していることを客観的に見れる目線を持ちなさい」という意味を指しているものです。
日本人は、この「第三の目」がとてもよく機能しているように思います。所謂、「気づかい」というのは、まさに「第三の目」がなせるスーパーセンス(超感覚)だと思います。自分の視界に入っている人を気づかうという意識は、本当に大切にしたいものです。もっとも、この「気づかい」が、単に、自分以外の人に、自分がどのように映っているんだろう?という「主観的に観る」ことになっている場合には、「客観的に見れる」こととは異なります。
今年ほど、さまざまな映像を見ていて、「このように(主観的に)観ています」という強い印象の映像が繰り返し流れた年はなかったと思います。映像は、撮影者がレンズ(単眼)を通して、意図して切り取られたモノです。つまり、「主観的に観る」ことになっていて、「客観的に見れる」こととは異なります。だから、このような映像を見続けると、なぜそんなものに凝視しなくてはいけないの?と生理的に嫌悪することがあったとしても、それは、自分が望まないモノを見せる手段(メディア)の特性の為に、逃れようがないのです。
終戦後、7年を経て1952年に発表された、小説『二十四の瞳』は、戦争というものを十二人の子供たちの目を通して見えるように描いています。
1984年、郷ひろみというアイドル歌手がうたった『2億4千万の瞳』は、歌詞を読むと、「この星の片隅の2億の瞳が素敵な事件を探してるのさ」となっています。あたかも、その素敵な事件の中心に自分がいて、自分に向けられている瞳が2億4千万個あるという意味に思えます。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36026
『二十四の瞳』の瞳が向いている視線の先を気にしていた「おなご先生」は、「第三の目」よりももっと多くの目線を意識していたことになります。一方、郷ひろみは、『2億4千万の瞳』が自分に向けられているように意識していたのかもしれません。
僕は、「評価」という言葉を何度も考え直すことで、この「第三の目」に辿り着いています。それは、「おなご先生」が注意を払い、意識し続けた子供たちの目線に対する「評価」であり、「郷ひろみ」が唄ったような自分に注意が向けられ、自分に与えられる「評価」とは随分と違う。
誰の目線がどこへ向けられているのか?
「第三の目」を考えていると、どうも、僕たちが求めている答えのヒントがあるのかもしれない。そのように思ったりするのです。
皆さんが良い年を迎えられることを祈っています。(●`エ´)ノ
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