僕たちは、 ソーシャル・ネットワークに多くの可能性を見いだしている。その可能性を大きく広げるには、情報がなによりも欠かせない。
もっとも、情報とは漠然とし過ぎている。だから僕は、この情報を、知識・技術・経験という3つの要素に分けて考えてみることにした。
知識と技術と経験の違い
僕たちは、文字から知識を得ることができても、技術を得ることはできない。技術を得るには、身体的な修練や実践が必要になるからだ。文字から得ることができるのは、ただの知識に過ぎない。
同様に、知識や技術から経験を得ることもできない。
アリストテレスは『形而上学』の中で、技術的知識(ノウハウ)のような概念を使いながらも、知識や技術から、経験をあきらかに区別している。
医者は、風邪の治療方法についての知識を持っている。どのようにすれば、その知識を治療としていかせるかを学び、実践する。しかし、特定の患者には、その方法が必ずしも有効でないことを学ぶには、経験が必要になる。
知識や技術が、全体に対して普遍的であることに対して、経験は個別で考える必要がある。
学問や技術・武芸などの技術的知識を練り磨くことを「修行」というが、山伏や阿闍梨は、このような能力を磨くことを「験(げん)を積む」といった。僕たちが「経験」と表現することは「修行」と呼ぶほど強く意識した行為ではないけど、知識や技術を無意識に練り磨く行為であることは納得できる。
現代社会では、経験科学と呼ばれる学問があるらしい。ジンクスやアノマリーは、そうした経験科学のように捉えられている。ジンクスは、因縁のように思われる事柄を指すが、精神的な暗示効果が大きいように思われる。スポーツ選手は、同じユニフォームの色や前日の食事など、小さなジンクスを大切にしたりするらしい。また、アノマリーとは、株式市場などでの経験則である。理論では説明できないが経験的には説明できる市場変動の法則のことであり、たとえば、「ジブリの法則」などが有名である。
NSJ日本証券新聞の11月25日の記事
―――
☆12月9日の日本テレビ系金曜ロードショーの放送作品が、当初の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」から「天空の城ラピュタ」に変更された。市場の一部で金曜ロードショーでスタジオジブリ作品が放映されると、その日もしくは週明けの株式や為替市場が大荒れになることが多い、というアノマリー「ジブリの法則」がささやかれており、今回も要警戒との見方も出ている。(Q)
ところが、このような経験科学は、実際にやってみなくては、あるいは、起こってみなくては、効果が得られるかどうかわからない。そのために、経験科学は、「験をかつぐ」という言葉があるように、吉兆を暗示する出来事のように捉えられることも少なくはない。
それでも、経験が大切なことは、過去の状況と同じことが再現される場合に、その時の経験を生かすことが求められる為である。
知識・技術の広がり、経験の深さ
文字を読み書きする能力が人に備わっていることを表す割合を「識字率」がある。「識字率」が高いと、より多くの知識を吸収することが可能になる。「識字率」は、知識の広がりを計る上でとても役に立ちそうである。
知識に基づいて実践される割合を「普及率」として表現してみよう。当然のことながら、技術はじめて試されるのは、実践にほかならない。だから、スポーツなどの実践を欠かすことのできない分野においては、「普及率」は、実践の広がりを計る上で役立ちそうである。
では、経験はどのように考えるべきだろう。
経験には、「識字率」や「普及率」のような参考になる数値はあるのだろうか?前述したように、経験は、すべての事柄に対して当てはまる普遍的なものではない。むしろ、個別に対応できる為の知識と技術を別途要求することになる。だからこそ、経験が重要であることは間違いないはずだ。このような経験値は、単純に何かができるとか、何かをしたという数値で表現することは、極めて難しい。
僕たちは、経験を表現する時には、経験が浅いとか深いといった表現をするように、それぞれの個人の経験を量的に表現していることは間違いないだろう。とはいえ、そのような表現をすることを知っていたとしても、僕たちが、他人の経験の深さを計る適当な手段を持っているかというと、とても怪しくなってくる。
もっとも、自分が一度なりとも経験していることについては、他人が同じ経験を経て、ある種の対策方法を知り得ているかどうかを見分けることができるように思う。そして、その対策方法は、通常の知識・技術ではなく、ある特殊な知識・技術を用いることであったりする。
エヴァンゲリオンのシンクロ率
エヴァンゲリオンというアニメの中で、「シンクロ率(以下、同調率)」という表現が出てきた。エヴァンゲリオンとは、一見、巨大なロボットのように見える生命体を操縦士が操作する際、精神的な同調が前提になっている。つまり、「同調率」は、エヴァンゲリオンと操縦士の同調する割合を表わしている。だから、複数の操縦士も、エヴァンゲリオンの個体との「シンクロ率」がとても大切になる。
卓球のラケットのグリップを自分の手の大きさに持ちやすいように削ったりするように、道具というものは、ここの身体の異なりにあわせて、個別に最適化する必要がある。
エヴァンゲリオンというアニメの内容について知らなくても、個と個の関係においては、なんらかの形で最適化した状態がとても大切だったりする。経験とは、そうした「個別最適」のための知識・技術ではないだろうか。
勿論、どれだけ固有の「個」が存在しているのかを知ることは、極めて難しいことはいうまでもない。しかし、一旦、そのような「個」の存在が明らかになったとき、対応できる能力が経験であると言えるのではないだろうか。
経験の深さと同調率
経験に限っては、ある特殊な「個」に対する知識・技術が重要な役割を果たしていることは間違いないように思う。そして、そのような特殊な「個」の存在を多く知っていることは、「経験が深い」と言って表現され、ひとつの特殊な「個」についての知識や対応する為の技術は、「同調率」のように表現されるように思う。
このような確信も、自分自身だけに当てはめれば、うまく表現できているように思う。しかし、この確信そのものが、個人的な経験にもとづいているために、他の方には、ちゃんと合点がいくのであろうかと、なんとも漠然として仕方がない。もっとも、そうした個別の評価を表わすことが、経験を自覚する上でとても大切なことであることは間違いないと思っている。
ソーシャル・ネットワークの可能性
自分に足りない経験とは、ある特殊な「個」に対応する知識・技術であると書いた。なるほど。ソーシャル・ネットワークでは、そのようなをある特殊な「個」に対応する「知識・技術」を他者に求めているのではないかと思われる。つまり、ソーシャル・ネットワークとは、僕たちに欠けている経験を補完する手段となりうるのだ。
眼の前にある現象は、自分では理解できない特殊な状態、特殊な「個」であるのだけれど、ソーシャル・ネットワークには、多くの人たちが、それぞれに固有の経験を行なってきている。だからこそ、それぞれの人が偶然、そこに持ち合わせた「知識・技術」に照らして思い当たるようなことがあれば、自然と耳打ちしてくれる関係が心地よく思えるのではないだろうか。
もっとも、そうした他者が気づいて教えてくれた「知識・技術」は、自分自身が、易々と獲得できる「知識・技術」であるとは限らない。しかし、身近なサービスとして提供されていることが多いのも、現代社会の特徴であるし、きっかけさえ見つかれば、そうした「知識・技術」を補足するような詳細な情報が見つかりやすいのも、このネットワーク社会の特徴であるように思われる。
多様な問題への備えとしての「知域」
このように考えてみると、ソーシャル・ネットワーク上では、似通った価値観の人たちからは、特殊な「個」への知識・技術を期待することは難しいように思われる。
多様な問題にたいして備えることができるソーシャル・ネットワーク上の人間関係。これを「知域」として呼ぶべきなんではないだろうか。
もっとも、情報とは漠然とし過ぎている。だから僕は、この情報を、知識・技術・経験という3つの要素に分けて考えてみることにした。
知識と技術と経験の違い
僕たちは、文字から知識を得ることができても、技術を得ることはできない。技術を得るには、身体的な修練や実践が必要になるからだ。文字から得ることができるのは、ただの知識に過ぎない。
同様に、知識や技術から経験を得ることもできない。
アリストテレスは『形而上学』の中で、技術的知識(ノウハウ)のような概念を使いながらも、知識や技術から、経験をあきらかに区別している。
医者は、風邪の治療方法についての知識を持っている。どのようにすれば、その知識を治療としていかせるかを学び、実践する。しかし、特定の患者には、その方法が必ずしも有効でないことを学ぶには、経験が必要になる。
知識や技術が、全体に対して普遍的であることに対して、経験は個別で考える必要がある。
学問や技術・武芸などの技術的知識を練り磨くことを「修行」というが、山伏や阿闍梨は、このような能力を磨くことを「験(げん)を積む」といった。僕たちが「経験」と表現することは「修行」と呼ぶほど強く意識した行為ではないけど、知識や技術を無意識に練り磨く行為であることは納得できる。
現代社会では、経験科学と呼ばれる学問があるらしい。ジンクスやアノマリーは、そうした経験科学のように捉えられている。ジンクスは、因縁のように思われる事柄を指すが、精神的な暗示効果が大きいように思われる。スポーツ選手は、同じユニフォームの色や前日の食事など、小さなジンクスを大切にしたりするらしい。また、アノマリーとは、株式市場などでの経験則である。理論では説明できないが経験的には説明できる市場変動の法則のことであり、たとえば、「ジブリの法則」などが有名である。
NSJ日本証券新聞の11月25日の記事
―――
☆12月9日の日本テレビ系金曜ロードショーの放送作品が、当初の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」から「天空の城ラピュタ」に変更された。市場の一部で金曜ロードショーでスタジオジブリ作品が放映されると、その日もしくは週明けの株式や為替市場が大荒れになることが多い、というアノマリー「ジブリの法則」がささやかれており、今回も要警戒との見方も出ている。(Q)
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ところが、このような経験科学は、実際にやってみなくては、あるいは、起こってみなくては、効果が得られるかどうかわからない。そのために、経験科学は、「験をかつぐ」という言葉があるように、吉兆を暗示する出来事のように捉えられることも少なくはない。
それでも、経験が大切なことは、過去の状況と同じことが再現される場合に、その時の経験を生かすことが求められる為である。
知識・技術の広がり、経験の深さ
文字を読み書きする能力が人に備わっていることを表す割合を「識字率」がある。「識字率」が高いと、より多くの知識を吸収することが可能になる。「識字率」は、知識の広がりを計る上でとても役に立ちそうである。
知識に基づいて実践される割合を「普及率」として表現してみよう。当然のことながら、技術はじめて試されるのは、実践にほかならない。だから、スポーツなどの実践を欠かすことのできない分野においては、「普及率」は、実践の広がりを計る上で役立ちそうである。
では、経験はどのように考えるべきだろう。
経験には、「識字率」や「普及率」のような参考になる数値はあるのだろうか?前述したように、経験は、すべての事柄に対して当てはまる普遍的なものではない。むしろ、個別に対応できる為の知識と技術を別途要求することになる。だからこそ、経験が重要であることは間違いないはずだ。このような経験値は、単純に何かができるとか、何かをしたという数値で表現することは、極めて難しい。
僕たちは、経験を表現する時には、経験が浅いとか深いといった表現をするように、それぞれの個人の経験を量的に表現していることは間違いないだろう。とはいえ、そのような表現をすることを知っていたとしても、僕たちが、他人の経験の深さを計る適当な手段を持っているかというと、とても怪しくなってくる。
もっとも、自分が一度なりとも経験していることについては、他人が同じ経験を経て、ある種の対策方法を知り得ているかどうかを見分けることができるように思う。そして、その対策方法は、通常の知識・技術ではなく、ある特殊な知識・技術を用いることであったりする。
エヴァンゲリオンのシンクロ率
エヴァンゲリオンというアニメの中で、「シンクロ率(以下、同調率)」という表現が出てきた。エヴァンゲリオンとは、一見、巨大なロボットのように見える生命体を操縦士が操作する際、精神的な同調が前提になっている。つまり、「同調率」は、エヴァンゲリオンと操縦士の同調する割合を表わしている。だから、複数の操縦士も、エヴァンゲリオンの個体との「シンクロ率」がとても大切になる。
卓球のラケットのグリップを自分の手の大きさに持ちやすいように削ったりするように、道具というものは、ここの身体の異なりにあわせて、個別に最適化する必要がある。
エヴァンゲリオンというアニメの内容について知らなくても、個と個の関係においては、なんらかの形で最適化した状態がとても大切だったりする。経験とは、そうした「個別最適」のための知識・技術ではないだろうか。
勿論、どれだけ固有の「個」が存在しているのかを知ることは、極めて難しいことはいうまでもない。しかし、一旦、そのような「個」の存在が明らかになったとき、対応できる能力が経験であると言えるのではないだろうか。
経験の深さと同調率
経験に限っては、ある特殊な「個」に対する知識・技術が重要な役割を果たしていることは間違いないように思う。そして、そのような特殊な「個」の存在を多く知っていることは、「経験が深い」と言って表現され、ひとつの特殊な「個」についての知識や対応する為の技術は、「同調率」のように表現されるように思う。
このような確信も、自分自身だけに当てはめれば、うまく表現できているように思う。しかし、この確信そのものが、個人的な経験にもとづいているために、他の方には、ちゃんと合点がいくのであろうかと、なんとも漠然として仕方がない。もっとも、そうした個別の評価を表わすことが、経験を自覚する上でとても大切なことであることは間違いないと思っている。
ソーシャル・ネットワークの可能性
自分に足りない経験とは、ある特殊な「個」に対応する知識・技術であると書いた。なるほど。ソーシャル・ネットワークでは、そのようなをある特殊な「個」に対応する「知識・技術」を他者に求めているのではないかと思われる。つまり、ソーシャル・ネットワークとは、僕たちに欠けている経験を補完する手段となりうるのだ。
眼の前にある現象は、自分では理解できない特殊な状態、特殊な「個」であるのだけれど、ソーシャル・ネットワークには、多くの人たちが、それぞれに固有の経験を行なってきている。だからこそ、それぞれの人が偶然、そこに持ち合わせた「知識・技術」に照らして思い当たるようなことがあれば、自然と耳打ちしてくれる関係が心地よく思えるのではないだろうか。
もっとも、そうした他者が気づいて教えてくれた「知識・技術」は、自分自身が、易々と獲得できる「知識・技術」であるとは限らない。しかし、身近なサービスとして提供されていることが多いのも、現代社会の特徴であるし、きっかけさえ見つかれば、そうした「知識・技術」を補足するような詳細な情報が見つかりやすいのも、このネットワーク社会の特徴であるように思われる。
多様な問題への備えとしての「知域」
このように考えてみると、ソーシャル・ネットワーク上では、似通った価値観の人たちからは、特殊な「個」への知識・技術を期待することは難しいように思われる。
多様な問題にたいして備えることができるソーシャル・ネットワーク上の人間関係。これを「知域」として呼ぶべきなんではないだろうか。
多様化する価値観を持つ個人が、同じネットワーク社会に共存していることは、一見、とても魅力的なことのように思える。
返信削除でも、同じシステムを使っているということは、あらかじめシステム側で設定された選択肢に基づく判断しかできないことをも意味しているから、それは、マスメディアにおける議論の選択肢が、アジェンダ設定されていることよりも恐ろしいことなのかもしれないですね。