2014年12月1日月曜日

信頼関係を構築すること

信頼関係を構築すること

「言語の身体性」について投稿したそもそもの理由は、《情報デザイン》は、何を目的に行っているかを確認したいと思ったからです。

僕にとって、この目的は明快です。それは、〈信頼関係〉を構築することです。

ある対象者に情報が提示されたとして、その情報の信憑性が問われはじめると、最悪の場合、手の込んだ欺瞞だと思われるかもしれません。そして、それは、提示された一つの情報だけを指すものではなく、遡って、情報を提供した人たちすべての人格を怪しむような衝動を生み、育てます。


コンティンジェンシー(不確定性)

パーソンズやルーマンといった社会学者たちは、社会に生きる人々が、コンティンジェンシー(不確定性)、あるいは、ダブル・コンティンジェンシー(二重の不確定性)のような問題を常に抱えていると指摘します。

ここでいう不確定性とは、「未来の自分は、状況にによって変化する」といことを指します。そして、ダブル・コンティンジェンシーとは、社会学では、「自分がどう出るかは相手の出方次第であり、相手から見ても同様である」という相互的な関係を指しています。

《情報デザイン》は、このような不確定性を完全に払拭するものではありません。なにより、最終的な判断を下すのは当人ですから、外から与えられる有形・無形の情報は、その当人に思考するための言語(あるいは、適当な言葉が見当たらない場合の感覚モダリティ)を与えているだけです。

一方が抱えるコンティンジェンシー(不確定性)を、人と人の、相互の〈信頼関係〉に置き換えていくことは、そうした身体性を通じた言語化によって成し遂げられると思います。


ヒューマン・センタード・デザイン

《情報デザイン》は、短期的にはインタラクションのようなものを中心にして、人と人、あるいは、人とモノの関係を円滑にし、長期的には〈信頼関係〉を構築するものだと考えます。だから、 扱う問題の粒度において差があっても、ヒューマン・センタード・デザインの実現は、〈信頼関係〉を構築することと同じではないかと思います。

注意して欲しいことがあります。

この文脈の中でヒューマン・センタード・デザインを標榜するとき、ヒューマンとは、抽象化されたヒューマン・モデルではなく、具体的なプロファイルを持つヒューマン・インスタンスであるということです。つまり、中心にあるヒューマンは自己であり、他者はその周辺にあります。

例えば、サーバー・クライアント・システムのようなものを考えてみてください。

インタラクションにも、コンティンジェンシーが潜在しています。簡単に言い切れば、触れてみなければわからないのです。そして、ある操作が、ある人に馴染みやすいものでも、別の人に馴染みやすいものとは限りません。また、ショートカットのように、利用頻度が増すにつれて省略されるべきものもあるはずです。

粒度を変えて、サービス全体を見てみます。

クライアント側から見れば、サーバは、あたかも全てのユーザに対して平等に接しているかのように見えるかもしれません。しかし、サーバ側ではクライアント側から与えられる要求(つまり、処理によって発生する負荷)に優先順位を無視して、全てに応答するような運用はできません。

サーバ・クライアント・システムでは、提供するサービスが高度化するにつれて、ユーザをプロファイル化せずに単純なモデルとして扱うことは非現実的です。


実体のない情報は、抽象化されたモデル

実体のない情報は、抽象化されたモデルです。モデルとは、どのような属性を持ち、どのような機能を持つかを制約条件として整理したものです。制約条件を満たすことで、モデルが何であるかを判定することができます。だから、現実世界にあるような固有の事情によって発生する負荷を想定していません。

実際、システム開発において、基本設計段階ではモデルを使った設計が可能でも、運用設計段階では具体性を持たせておかないと、運用段階で簡単につまづくことになります。そして、たいていの利用者は自分が利用しているときに障害が起きれば、それだけが理由で利用をやめたりします。


言語の身体性

利用者の抱える具体性を知ろうとすると「言語の身体性」が大切になります。

上記のような問題に陥らないようにシステムを設計するには、大きく分けて二種類の耐性を念頭に置きます。ひとつは、システムの外側から発生する事象に対する耐性〈堅牢性〉であり、もうひとつは、システムの内側から発生する事象に対する耐性〈安定性〉です。

このような考え方を人間に当てはめた場合、身体の内・外に対して、どのような耐性を想定すべきか?というのが、「言語の身体性」について考えていくときの、最初のブレークダウンになるのではないか、と思います。

言語の身体性

ジョナサン・アイブのコメント

アップル社のデザイン最高責任者であるジョナサン・アイブ氏が気になることを語っています。
students were being taught to use computer programs to make renderings that could "make a dreadful design look really palatable"

僕はこれを読んで、直感的ではあるのですが、デザイン教育?が脇道に逸れてきているように感じました。

特に、以下の部分に刺激されます。

"make a dreadful design look really palatable"
(酷いデザインをさも好ましく見せる)

企業経営者側の欲求に押されて、デザイン教育に関わる人たちの一部では本道が見えなくなっているのかもしれないですね。


言語の身体性

「言語の身体性」が、個人的にずっと気になっています。

このブログでは、言葉がとても重要なテーマになっているんだけど、どうも言葉の一つ一つ、あるいは、その言葉を発する人、そして、それが言葉でなく立ち振る舞いや身振り・表情であっても、「言語の身体性」というものがあって、これまでの試行錯誤に一つの道筋を示してくれるように思うのです。

例えば、身体を通じて言語を獲得できても、言語を通じて身体や身体感覚を得ることはむずかしい。造形には様々な身体性が不可欠です。自分の手に比べて大きいのか、小さいのか、といったことに始まって、僕たちが物事を判断するときに、その時点までに持ち合わせ経験が身体に染み付いているように思います。

その立場からすれば、デザインは、現実空間のなかに身体性を持ったモノを生み出す行為です。そして、ここでいう身体とは〈誰の〉身体でもなく、自らの身体を無意識のうちに基準にしています。そして、そこがとても重要なのです。自分の身体に隣接する(した)モノを基準にしているのです。


「わかりやすさ」の性質

例えば、プロダクトやサービスをデザインするのであれば、理想的にはゼロックスする・ググる…くらいの身体性を目指したいですよね。ここまで来れるならば、〈それ〉は、多くの人たちのなかで言語化されたと言ってもいいかもしれないでしょう。

では、どうやってそれを実現すればいいのか?

一言で言えば、「わかりやすさを科学的に解明すること」だと思います。

情報デザインにおいて例えるならば、解釈を一意に誘導するようなインフォグラフィックのテクニックを乱用するのではなく、その一方で、人と長く付き合うことで相手の人柄が対話的に見えてくるように、情報の深層に向かっていけるようなデザイン(例えば、パーソナル・コンピュータの進化にデスクトップ・メタファー)が欠かせないと思います。

適切なデザインをする上では、「解釈を一意に誘導することを避けること」と「直感的に操作できるようにすること」とを使い分ける必要があるはずです。

そのためには、認知科学的なアプローチを踏まえて、デザイン手法として確立することを目指しつつも、要所要所において、モデル化にとどまらずインスタンス化できるようにしなくてはなりません。

デザイナーには、これまで以上に認知科学的な探求が必要だと思います。


量産(マスプロ)と個産(ワンオフ)

マイクロソフト社は、Windows(窓)という名称を与えたけれど、窓枠のまわりには、すべての人にとって共通するデスクトップ・メタファーしか作れませんでした。

最近、話題になっている3Dプリンターは画期的ではあるけれど、量産を志向するデザイナー向きではなく、ワンオフ(一個しか作らない)の造形作家向きです。

Windowsと3Dプリンターのようなものを念頭におくと、僕には、次のような妄想が見えてきます。
窓枠の中を覗き込むことで、その利用者だけに好適化された造形物、あるいは、情報が得られる…
仮に、これを実現できれば、僕にとって目指すべき情報デザインのあるべき姿が具現化できるように思います。


共時態と通時態

もっとも、ここには注意が必要です。

目的の窓枠にたどりつくには、ゼロックスやグーグルといった誰にでも受け容れられるような身体の汎用性(言語学的に言えば、共時態)が欠かせません。

しかし、情報のわかりやすさは、自分に好適化した身体の固有性(言語学的に言えば、通時態)から切り離すことはできません。

僕たちが情報を得るとき、同じ時代の人たちがそれをどのように考えているか?と気にするようなことはしません。仮に、そのような周囲の考えに気をやるとしても、それが自分にとってどのようなものであるかを判断した後に行うこと、であるはずです。つまり、自分のこれまでの経験を踏まえた意味で、自分の身体性に合致しない情報を受け入れることは難しいし、それをやろうとしても、背伸びをして普段使わないような言葉を使うようなものだと思います。


デザインの本道

「デザインをさも好ましく見せる」ことができても、実際に使った人にとって「酷いデザイン」という評価を受けるのであれば、それは「餅絵」として揶揄されることになります。一過性の売り上げに貢献できるかもしれませんが、顧客との間に信頼関係を築くようなことを目指すものではなく、それは脇道に逸れているとしか言いようがありません。

アイブ氏がコメントしたことの背景には、「インタラクションのようなものによって返される本質的な品質が伴っていないデザインは餅絵である」と、競合企業の商品を揶揄するものにも受け取れます。でも、個人的には、「身体性に馴染むようなわかりやすさをデザインしていることに繋がっているのか?」と問いかけられているように思うのです。

仮に、後者であるならば、僕は、「言語の身体性」を意識してデザインすることこそが、その問いかけに対する答えではないかと思います。

なぜなら、提案する製品やサービスを通して、そのような身体性を顧客との間、あるいは、顧客と顧客の間に共有できれば、遠く隔たった場所にいても、「言語の身体性」を通して、より円滑なコミュニケーションが可能になると思うのです。そして、そこにデザイナーの果たすべき役割があると思います。

2014年3月11日火曜日

僕たちの知識とは、どのようなものか?


ピエール・レヴィの《集合知(Collective Intteligence)》をまとめた興味深いチャートを見つけたので、少しばかり読み解いてみたい。

レヴィの洞察には、いつも深淵なものがある。

は、知識(Knowledge)を考えるのに、科学(Science)の対極に堅実(Wisdom)を置いて、その中間に芸術(Art)を置いている。

科学ー芸術ー堅実

このような図式を眺める上で忘れてならないのは、これらの用語が表しているものは、これらの用語を眺めている僕たち一人一人が持ち合わせた程度のものである、ということ。つまり、科学と言っても、現代社会の最先端のそれではない。

もちろん、チャートは、《集合知》がどのようなものであるかをまとめようとしているモノなのだけれど、僕たちは、自分のことに一つ一つの概念を置き換えながら、紐付けながら、こうしたチャートを読むことしかできない。だから、ここでは抽象的な科学というより、自分自身がとることのできる科学的な態度という方がわかりやすいだろう。同様に、堅実というのは、自分自身がとることのできる賢明な態度に他ならない。だから、本来、純粋な論理である科学であっても、自分自身が持ち合わせている程度の科学であることを肝に命じておく必要がある。


等身大の自分

デザインされたものが大好きな僕たちは、商品やサービスを選ぶとき、自分の知りうる知識に照らして、最良の選択をしたと思っていないだろうか。

特に、昭和生まれの日本人は新しいものが大好きで、いとも簡単に乗り換えてしまうところがある。かく言う僕も昭和生まれなのだけど、平成生まれの人と話していると、等身大の自分を持っていることに気づかされる。

僕の周りにいる昭和生まれの人たちに言わせると、高望みがないというような表現も出てくるのだけど、僕の見方は少し違う。彼らの生きている社会が、広がり過ぎていない程度の大きさに思えるのだ。これに対して、昭和生まれの僕たちは、本当に知りもしないことを知っているかのように語りはじめるところがある。

(レヴィは、チャートのなかで、ナレッジ(知識)に対応させて、メッセージを挙げている。さらに、メッセージの項目のなかにメディアを挙げている。)

昭和生まれの人たちが生きてきた世界では、マス・メディアのようなメディアが強すぎるほどに意識されていた(る)ように思う。平成生まれの人たちが、世界のなかにいる自分に気づき始めた頃、携帯電話やインターネットがあって、手紙や電話だけだったパーソナル・メディアが進化を始めた(メディアについては、別の機会に触れたい)。


同じ集落に暮らしている人たち

彼らの生きている社会は、パーソナル・メディアを中心に繋がっていて、人間関係のなかにあるようだ。社会という言葉の語源は、「同じ集落に暮らしている人たち」らしい。彼らの生きている社会では、その言葉の通り、遠くにいるはずでも決して見えてこないような人たちは、その中に含まれていないのだ。学校の先生が伝えることだからと言って、鵜呑みにされない。細かな裏事情に至るまで、パーソナル・メディアがなにかと補ってくれる。

マス・メディアが強すぎる時代に生きてきた昭和生まれの僕たちは、テレビや新聞がそのように言っているのだから、と鵜呑みにしてしまう傾向がある。ところが、インターネットを通じて世界中のマス・メディアが伝えるないように触れることができる時代になってみて気づかされるのは、日本の国内向けにされた報道があまりにも画一化されているということではないだろうか。

彼らには、ある意味で、虚栄心のようなものも無くて、嘘がない。堅実であること、賢明な態度であることが等身大の彼らを現している。まさに、僕の印象と重なる。

科学が好きでありたいと思っても、科学について一通りの知識を積み上げることはとても難しい。だけど、科学に詳しい人に思われたい。そうなると、知ったかぶりになることもある。いや。だからこそ、科学を語ろうとして、科学的な態度からかけ離れていってはならない。だけどだけど、一歩間違えると、簡単に踏み外してしまいやすい状況がある。パーソナル・メディアは、そういう状況に手厳しい。


既成概念を打ち壊す

仕事でも、理論を持ち出す人たちのなかに堅実でない、おまけに、科学的でもない人がいたりする。そういう人が持ち出す知識が芸術的であるかどうかは、あえて横に置いておくが、芸術が既成概念を打ち壊す行為であることを確認しておこう。

レヴィが、芸術を科学と堅実の間に置くのは、そのような意図があるのではないだろうか?

元々、日本人が何かを愛でるような態度というのは、科学(Science)と堅実(Wisdom)の間にある、そのような態度に近かったのではないだろうか?

もちろん、流行り廃りに乗せられやすいところが、日本人にずっと前からある。そのことは否定しようもない。季節の変化を通じて旬を好むような態度とも混同されやすいが、そういう気質をもってして、流行り廃りのなかで失敗を重ねて、日本人は堅実さを身につけていく。その季節のなかで、旬であるものは試行錯誤を通じて定着していくのだ。

時空を超えて、日々洗練されていく日本人の感性は素晴らしい。

世界の様々な料理が日本人の味覚に会うようにアレンジされていくこと一つとっても、芸術的だと思う。自分たちの好みに最適化できるものは、既成の概念があっても、どんどんと打ち壊されていく。


メディアをデザインする

インターネットのようなメディアが生まれて久しい。普及率だけ見れば相当なものだと思うのだけど、テレビや新聞に振り回される人が恐ろしく多いことがずっと気になっている。もしかしたら、昭和生まれの似非理論派がでかい声を出しているから、平成生まれの人たちの見ているものも、そのようなメディアを通じて共有されずにいるのかもしれない。マス・メディアは、産業でもあるから、自分の知っていること以上に理屈を振り回す実力者という人たちが跋扈しやすいこともあるのだろう。

そのように考えてみると、この時代にあったメディアがデザインされていないように思える。個人的には、平成生まれの人たちが、あるいは、昭和生まれでもいいから、そのような感性を持ち得た人たちが、少しでも大きな社会の中に自分自身を置いて、社会のために芸術的に思うことをしてみて欲しい。

きっと、一つ一つの判断のなかで、この時代にふさわしいエスプリが効いてくるんじゃないかと思う。