非文法的言語としての日本語
森有正は、『経験と思想』において、「日本語は非文法的言語である」と言う。
ここで、〈生れてから物心をつくまでに身につける日本語(母国語としての日本語)〉と、〈大人になってから別の言語を通して習う日本語(外国語としての日本語)〉と比較したとき、〈外国語としての日本語〉を習うには、文法を通して習う必要があるのだけれど、文法を習っても、すぐさま「日本文を再構成することは全く不可能である」ことから、森は、「日本語は非文法的言語である」というのである。
言葉と現実を結びつけるもの
森有正は、『経験と思想』において、「日本語は非文法的言語である」と言う。
日本語は、文法的言語、即ちそれ自体の中に自己を組織する原理を持っている言語ではない、という事実にあると考えている。もちろん現実との関連において、完全に論理的に組織されている言語は存在しないのであるから、これは相対的なことであるかも知れないが、日本語では、その非文法的である度合いが甚だしいのである。…人は中等教育用の文法の教科書が存在することをもって反対の論拠としようとするかも知れないが、この種の文法の教科書は、英語やフランス語における実用規範文法とは全く違ったものであり、それは日本語の機能を帰納的に整理したものであっても、そこから逆に日本文を再構成することは全く不可能である。p118
そういうわけで、日本語に規則を樹(うちた)て、変でない日本語を書きうるようにしようとすると、規則は現実と同じように複雑になり、規則の規則としての特性が失われてしまう恐れがある。p121森は、「日本語が不完全である」と言っているのではない。
ここで、〈生れてから物心をつくまでに身につける日本語(母国語としての日本語)〉と、〈大人になってから別の言語を通して習う日本語(外国語としての日本語)〉と比較したとき、〈外国語としての日本語〉を習うには、文法を通して習う必要があるのだけれど、文法を習っても、すぐさま「日本文を再構成することは全く不可能である」ことから、森は、「日本語は非文法的言語である」というのである。
言葉と現実を結びつけるもの
一方で、森は、英語やフランス語にはない、日本語独自の、現実のニュアンスを映そうとする機能について主張する。
助詞は、その数は限定されているが、あるいは独立して、あるいは互に組み合わせられて、ほとんど無限に複雑で予料できない現実のニュアンスを映す作用をもち、またそういう無限の可能性を含みうるものとしてのみ観念されることが出来るのである。ただしかし、その「無限の可能性」は「現実」のそれであって、助詞に内在するものではない。助詞はそのもつ方向性のみによって分類されうるもので、その内容としては無限定の現実を映すという規定できない性質をもつのみである。だからそれは、英仏語などにおける前置詞、前置句、あるいは、後置詞などと違って、言葉の内部の一部であるよりも、言葉と「現実」とを結びつける紐帯の如きものである、と言ったほうがよいように思う。p121
ここにある、「助詞は、…その内容としては無限定の現実を映す」、或いは、「言葉と「現実」とを結びつける紐帯の如きもの」という表現から、日本語文法の研究者であった、時枝誠記の言語イメージが想起される。
時枝によれば、
言語過程説
小池清治は、『日本語はいかにつくられたか』のなかで、
「言語過程説」は、「言葉を発しよう、或いは、書いたりする(表現過程)」と「聞いたり、或いは、読んだりする(理解過程)」の二つの過程をみることができる。このとき、どのようにして自分の考え(それを「概念」と呼ぶ)を言葉にするか、あるいは、言葉から自分の考えにするかを「言語過程」として捉えようとする。
詞と辞
時枝は(『国語学言論(上)』第三章二節「単語に於ける詞・辞の分類とその分類基礎」において)、日本語の単語を以下のように分類している。
ここで大切なことは、森の「言葉と「現実」とを結びつける紐帯の如きもの」に相当する役割を、時枝が指摘していることである。しかも、時枝は、その「紐帯の如きもの」は、単語において、詞・辞のように分類できるというのである。
時枝によれば、
言語はその本質として、人間が思想感情などを可聴的な或は可視的な媒材即ち音声或は文字を借りて外部に表出する処の精神活動であると云ふことが出来るであらう。とあるように、「言語は…精神活動」であるという立場から、「言語過程説」を打ち立てている。
言語過程説
小池清治は、『日本語はいかにつくられたか』のなかで、
この問題を考へて私は言語は絵画・音楽・舞踊等と等しく人間の表現運動の一つであるとした。然らば言語と云はれるものは、表現活動として如何なる特質を持つものであるかを考へて始めて言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来るであろうといふ予想を立てたのである、 『国語学への道』のように、時枝の言葉を引用した上で、
「言語は、…人間の表現運動の一つである」という断言は、この段階ではどのような内包を持つもの表現であるか、はっきりしないが、後の「言語過程説」に繋がるものであることは感得される。p219と述べている。
「言語過程説」は、「言葉を発しよう、或いは、書いたりする(表現過程)」と「聞いたり、或いは、読んだりする(理解過程)」の二つの過程をみることができる。このとき、どのようにして自分の考え(それを「概念」と呼ぶ)を言葉にするか、あるいは、言葉から自分の考えにするかを「言語過程」として捉えようとする。
詞と辞
時枝は(『国語学言論(上)』第三章二節「単語に於ける詞・辞の分類とその分類基礎」において)、日本語の単語を以下のように分類している。
一 概念過程を含む形式小池は、これらは、以下のように解説する(p223)。
二 概念過程を含まぬ形式
「一」は普通いうところの「名詞・代名詞・動詞・形容詞・副詞・連体詞」のことで、時枝はこれを「詞」と名付ける。「詞」は事柄・概念を表現して、文における客観的素材表示の機能を果たすものである。
「二」は普通いうところの「助詞・助動詞・接続詞・感動詞」のことで、時枝はこれを「辞」と名付けている。「辞」は言語主体(話し手・書き手など)の主観的判断、感情などを表現して、文における主体的判断表示の機能を果たすものである。より詳細な解説は、時枝の『国語学言論』を参照してほしい。
ここで大切なことは、森の「言葉と「現実」とを結びつける紐帯の如きもの」に相当する役割を、時枝が指摘していることである。しかも、時枝は、その「紐帯の如きもの」は、単語において、詞・辞のように分類できるというのである。
現実嵌入
それは、この紐帯によって、現実と言葉とが関係をもつということではない。現実と言葉とは始めから関係していて、それを更めて言うのは無意味である。ここでいう紐帯とは、それによって、「現実」が「言葉の世界」に嵌入するという意味である。換言すれば、「現実」が「言葉」の一部になる、ということである。私はそれを日本語における「現実嵌入」と呼びたいと思う。私はこれが、日本語を非文法的言語にしている一番大きい理由であると考えている。p122
時枝の「辞」は、「言語主体(話し手・書き手など)の主観的判断、感情などを表現して、文における主体的判断表示の機能を果たす」ことで、話し手、或いは、書き手の捉えている「現実」を表わすように機能する。森の言う「紐帯」は、「「現実」が「言葉の世界」に嵌入する」ような、まさにその状態を指しているように思う。
森は、言語学者であり、哲学者であった。時枝のような文法の研究者ではない。どちらかといえば、実践的に日本語を教える立場の人であった。しかし、フランスでの生活において外国人に日本語を教えているさなか、あることに気づく。それは、日本人同士の会話であれば自然に行われていること。つまり、話し手の表現のなかに投影される話し手の捉えている「現実」が、日本語で話そうとする外国人の表現のなかにうまく投影されていないということであった。
母国語
森の場合、フランス語に堪能になればなるほど際立つような、日本語で考える「思想」のなかにある「現実」と、西洋思想のなかにある「現実」との違和感を感じていたようである。
仮に、外国人がある事柄について外国人同士で話し合うような状況があったとしよう。そのとき、外国人は、自分が捉えている「現実」を自分たちの言語、つまり、母国語でうまく表現できないのだろうか?
森は、決してそのような立場を否定していない。むしろ、「経験」について言語で定義するとき、つまり、この場合「思想」について語ろうとすることになるが、そういうときに、日本語の傾向性として、「回帰的常住性」のようなものがあることを指摘しているに過ぎない。
実際、広義には、以下のように言っている。
森は、言語学者であり、哲学者であった。時枝のような文法の研究者ではない。どちらかといえば、実践的に日本語を教える立場の人であった。しかし、フランスでの生活において外国人に日本語を教えているさなか、あることに気づく。それは、日本人同士の会話であれば自然に行われていること。つまり、話し手の表現のなかに投影される話し手の捉えている「現実」が、日本語で話そうとする外国人の表現のなかにうまく投影されていないということであった。
母国語
森の場合、フランス語に堪能になればなるほど際立つような、日本語で考える「思想」のなかにある「現実」と、西洋思想のなかにある「現実」との違和感を感じていたようである。
仮に、外国人がある事柄について外国人同士で話し合うような状況があったとしよう。そのとき、外国人は、自分が捉えている「現実」を自分たちの言語、つまり、母国語でうまく表現できないのだろうか?
森は、決してそのような立場を否定していない。むしろ、「経験」について言語で定義するとき、つまり、この場合「思想」について語ろうとすることになるが、そういうときに、日本語の傾向性として、「回帰的常住性」のようなものがあることを指摘しているに過ぎない。
実際、広義には、以下のように言っている。
一つの言葉を話す民族あるいは国民の持つ「経験」は大ざっぱに幾つかの類型に分けて考えてみることが出来る。それは、それぞれの民族がもつ《深い傾向性》(Tendances profonds)によって、方向付けられ、特徴づけられる。p73母国語とは、それを話す人たちにとって、そのような性質をもつものではないか、と思う。