明治の思想
和英語林集成
文明開化という動乱の時代を日本で過ごしたJ・C・ヘボンは『和英語林集成』を編纂した。『和英語林集成』は、所謂、和英辞典にあたるものである。
小林によると、『和英語林集成』は、初版が慶応三年(1867)、再版が明治五年(1872)、三版が明治十九年(1886)に刊行されていて、そこに登録された総語数は、初版、再版、三版がそれぞれ、20722、22949、35618となっている。
小池清治は、『日本語はいかにつくられたか』を日本語の歴史をとてもコンパクトにまとめている。
小池は、夏目漱石の言葉を次のように引用している。p202
小池は、夏目漱石の言葉を次のように引用している。p202
明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。『三四郎』
ここでいう思想は、必ずしも哲学的な思想ばかりを指すものではないけれど、西洋文明の根底に流れるものを象徴するものであることは疑いようのないことだと思う。
和英語林集成
文明開化という動乱の時代を日本で過ごしたJ・C・ヘボンは『和英語林集成』を編纂した。『和英語林集成』は、所謂、和英辞典にあたるものである。
小林によると、『和英語林集成』は、初版が慶応三年(1867)、再版が明治五年(1872)、三版が明治十九年(1886)に刊行されていて、そこに登録された総語数は、初版、再版、三版がそれぞれ、20722、22949、35618となっている。
松村明は第三版で増加した語を調査し(『和英語林集成 第三版』復刻版 講談社 昭和四九年五月)、「J」の項では、「事物・自治・示談・事業・辞表・時間・事件・実行・事故・人民・人工・人類・人生・辞書・実際・自炊・実地・自転車・実物・滋養・慈善・女学校・女子・女史・授業・従事・巡査」などが増加したと報告している。p166
初版と三版の間のおよそ20年間に追加された語は、約一万五千語になる。
第三版で追加された語は、今日、普段の生活において欠くことのできないものばかりのものである。
カタカナ英語
『和英語林集成』を編纂したヘボンは、ヘボン式ローマ字の創始者でもある。
現代社会では、ヘボン式ローマ字の読み取りによる「カタカナ英語」のようなものが散乱している。文明開化のときに追加されていった語を思うと、現代社会には、なぜこれほどまで「カタカナ英語」が増えてしまったのか?と思う。
最近では、「PTA・TPP・UD・ICT・スマホ」などの略語が増えて、これらの語は、もはや符号のようになっていて、最初から何を指しているのか知らなければ、何を意味するものかわかりようがない。ただ読むことができるだけの、まさに「表音文字」である。
これらの語には、文明開化のとき、西洋文明を日本に取り込もうとしていた人たちが、それぞれの文明を基礎づけている西洋思想を一緒に取り込もうとしていたような、そういう苦労はない。つまり、既にあった生活のなかに新しい「思想」を少しでもはやく取り入れられるようにしようとして、意味のある文字、「表意文字」として生まれた漢字を当ててみせたような苦労はないのである。
仮借(かしゃ)
小池は、『日本語はいかにつくられたか』のなかで、日本語に文字が無かった時代、つまり、漢字が日本語として使われるようになった時代のことを詳述している。
暴走族が着ている服に刺繍で書き込んでいる文字「夜露死苦(ヨロシク)」とかも、分類するとすれば恐らく、「仮借」と呼ばれる表記方法になるだろう。
仮借とカタカナ英語は、その本質がとてもよく似ている。その読み方の先にある実体を知っていれば、それとわかるのだけれど、その先にある実体を知らなければ、なんのことだかさっぱりだ。
日本語にとって重要なこと
「最初から何を指しているのか知らなければ、何を意味するものかわかりようがない」そういう日本語がたくさん増えているのは、現実だと思う。
こういう状態からすぐさま、日本人が、これまで慣れ親しんできた日本語を喪おうとしていると言い換えることは乱暴であるけれど、「英語で学校教育を行うべきだ」と主張する企業経営者や、それに同調するような政治家が増えていることには、随分、身勝手な主張をするものだと思う。
こういう主張の背景には、平安時代の貴族が漢語で読み書きしたように、政治言語としての役割を英語に置き換えて見ようとする意図を伺うことができる。
しかし、紀貫之が『土佐日記』を書くにあたって、女性の立場になってまで、ひらがなと漢字を組み合わせたような、日本語や日本文化に宿る、貪欲なまでに、良いところがあれば取り入れようとする思想を見失ってはならないと思う。
そのようにして綿々と培われてきた、世界でも固有な文化として注目されている日本文化。それを支えているのは、日本語ではないだろうか。
デザインという表現
僕は、自分のことをデザイナーだと思っている。まあ、いろんなことに興味を持っているけれど、どのようにして意思疎通を図るかを考えて、この仕事に取り組もうとしている。その立場からすれば、文明開化の時に、西洋思想を咀嚼して漢字を組み合わせて新しい語を生み出した人たちも、僕のようなデザイナーも、同じような視点に立って物事を眺めているではないか、と思う。
まあ、だからこそ、いかにして日本語を作るのか?ということは、僕の中では、いかにしてデザインをするか?ということと同義だと思うのである。
第三版で追加された語は、今日、普段の生活において欠くことのできないものばかりのものである。
カタカナ英語
『和英語林集成』を編纂したヘボンは、ヘボン式ローマ字の創始者でもある。
現代社会では、ヘボン式ローマ字の読み取りによる「カタカナ英語」のようなものが散乱している。文明開化のときに追加されていった語を思うと、現代社会には、なぜこれほどまで「カタカナ英語」が増えてしまったのか?と思う。
最近では、「PTA・TPP・UD・ICT・スマホ」などの略語が増えて、これらの語は、もはや符号のようになっていて、最初から何を指しているのか知らなければ、何を意味するものかわかりようがない。ただ読むことができるだけの、まさに「表音文字」である。
これらの語には、文明開化のとき、西洋文明を日本に取り込もうとしていた人たちが、それぞれの文明を基礎づけている西洋思想を一緒に取り込もうとしていたような、そういう苦労はない。つまり、既にあった生活のなかに新しい「思想」を少しでもはやく取り入れられるようにしようとして、意味のある文字、「表意文字」として生まれた漢字を当ててみせたような苦労はないのである。
仮借(かしゃ)
小池は、『日本語はいかにつくられたか』のなかで、日本語に文字が無かった時代、つまり、漢字が日本語として使われるようになった時代のことを詳述している。
意柴沙加(ヲシサカ)これらは、六書(りくしょ)の一種「仮借(かしゃ)」と呼ばれるものである。漢字は、本来、表意文字であるけれど、その漢字の読みを当てて表音文字として利用する方法である。
今州利(コンツリ)
阿米久爾意志波留支比里爾波之弥己等(アメクニオシハルキヒリハノミコト)
暴走族が着ている服に刺繍で書き込んでいる文字「夜露死苦(ヨロシク)」とかも、分類するとすれば恐らく、「仮借」と呼ばれる表記方法になるだろう。
仮借とカタカナ英語は、その本質がとてもよく似ている。その読み方の先にある実体を知っていれば、それとわかるのだけれど、その先にある実体を知らなければ、なんのことだかさっぱりだ。
日本語にとって重要なこと
「最初から何を指しているのか知らなければ、何を意味するものかわかりようがない」そういう日本語がたくさん増えているのは、現実だと思う。
こういう状態からすぐさま、日本人が、これまで慣れ親しんできた日本語を喪おうとしていると言い換えることは乱暴であるけれど、「英語で学校教育を行うべきだ」と主張する企業経営者や、それに同調するような政治家が増えていることには、随分、身勝手な主張をするものだと思う。
こういう主張の背景には、平安時代の貴族が漢語で読み書きしたように、政治言語としての役割を英語に置き換えて見ようとする意図を伺うことができる。
しかし、紀貫之が『土佐日記』を書くにあたって、女性の立場になってまで、ひらがなと漢字を組み合わせたような、日本語や日本文化に宿る、貪欲なまでに、良いところがあれば取り入れようとする思想を見失ってはならないと思う。
そのようにして綿々と培われてきた、世界でも固有な文化として注目されている日本文化。それを支えているのは、日本語ではないだろうか。
デザインという表現
僕は、自分のことをデザイナーだと思っている。まあ、いろんなことに興味を持っているけれど、どのようにして意思疎通を図るかを考えて、この仕事に取り組もうとしている。その立場からすれば、文明開化の時に、西洋思想を咀嚼して漢字を組み合わせて新しい語を生み出した人たちも、僕のようなデザイナーも、同じような視点に立って物事を眺めているではないか、と思う。
まあ、だからこそ、いかにして日本語を作るのか?ということは、僕の中では、いかにしてデザインをするか?ということと同義だと思うのである。
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