2015年5月4日月曜日

回帰的常住性

回帰的常住性

森有正の書いた哲学書『経験と思想』のなかに、「回帰的常住性」p76 という言葉が出てきたので、色々と調べてみた(森が、日本人の「経験」や「思想」について説明するのに、この言葉を使うのだから、きっと押さえておくべき言葉なんだと思う)。

「回帰的」というのは、「北回帰線」とか「南回帰線」とかのように、「(太陽の軌道ように同じ位置にじっとあり続けている訳ではないけれど、)必ずそこを通過する、あるいは、そこに戻ってくること」を指している。

一方、「常住性」というのは、見出語としては見当たらない。どうやら、森の造語ではないかと思われる。

いろいろと探してみて、近しい表現として拾ったのは、「風性常住」という仏教用語だった。なので、この辺りから探ってみた。


風性常住

下記のページには、「風性常住」についての説法がある。
麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
風性常住、無処不周なり。
なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、
いまだところとしていたらずといふ ことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならむかこれ無処不周底の道理。
ときに、師あふぎをつかふのみなり。 僧、礼拝す。
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。
常住なればあふぎをつかふべからず、
つかはぬおりもかぜをきくべきといふは、
常住をもしらず、風性をもしらぬ なり。
風性は常住なるがゆへに、仏家の風は、
大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/dogen/dog15.html

この文章だと、現代人にはわかりにくいので、同じページに解説が書かれている。

更に、以下のページは、もっと砕いた表現がされていている。
http://sky.geocities.jp/zennotsudoi/2008report/h20report3.html


風が常に在ること

この言葉は、「風の性質は何処にでもある(風性常住)のだから、風が常に在るような状態になれるよう修行しなさい」という喩え話になっている。

この言葉は、「西洋的思考」からするとややピント外れな気がするけれど、「東洋的態度」からすれば、「なるほど」と思うところである。

因みに、「西洋的思考」というのは、ある言葉を聞いたとき、西洋人がその言葉の定義から学ぼうとすることに対して、「東洋的態度」では、東洋人がその言葉にまつわる経験的意味合い(教訓のようなもの)を引き出そうところがある、とする森流の哲学用語になっている。

いずれにせよ、ここから「常住性」といった場合には、「(ある特徴的な性質が)常にそこ(あるいは、それ)に備わっている性質」ではないかと当たりをつけてみる。


「回帰的常住性」であるもの

では、改めて、「回帰的常住性」という表現に戻ってみる。

この言葉は、「(ある対象の性質は、)じっと止まっている訳ではないけれど、(気がつくと、あるいは、いつかは)そこに必ず戻ってきていて、常にある特徴的な性質がそこにある」というような意味になる。

森は、この「回帰的常住性」という表現をつかって、「自然」について論じる。
自然は、あるいは自然に属する個物は、それの持つ人間生命との類似、すなわちそのもつ美しさと脆さ、時の間に過ぎ行くかりそめの姿によって深く人の心を打ち、と共に、それを見る者と共有しない、見る者を超える他の点、すなわちその回帰的常住性によっても、人にその脆さ、弱さを更に切実に思い起こさせることによって、人を感動させる。「もののあはれ」という情感は、こういう日本人の基本的感情、その究極的安定点を示す。p76-77
はて?日本人の「経験」や「思想」を説明する言葉ではなかったか?と思われるかもしれない。


「経験」の安定点

この段落に続いて、森は、以下のように書いている。
現代人の「経験」という感覚から言えば、こういう考えは、遠い昔の柿本人麿や山部赤人や『源氏物語』の世界のことのように見えるかも知れない。しかし一度その同じものが、現代の日本語や日本人の自然感情や人間関係の中に現れてくるのを見ると、それは我々に、我々の「経験」の本来の姿に対して深い反省を促さずには措かないのである。問題は、こういう感情が日本人である我々の「経験」の安定点になっている、ということである。このことの重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないと思われる。
要するに、我々、日本人の「経験」について語るにあたって、森は、我々、日本人が「自然」に対して抱いている「基本的感情(あるいは、究極的安定点)」を基礎づけとして呈示しようとしているのである。そして、日本人が、「経験」あるいは、「思想」と表現する時には、このように位置付けられた「自然」と同じように、対象が分解されていないような曖昧さを持つことを指摘する。

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