土佐日記
紀貫之が『土佐日記』を書くにあたって、当時、政治語として使われていた漢字と、生活のなかで使われていた仮名を組み合わせたことで、現代的な日本語文化が花開いたそうです。
それ以降、日本語は、外来語をカタカナに変え、複雑な表現を略語化し、さまざまな表現領域に加えて、それぞれの領域に奥深さを持つように発達してきています。
「グッとくる…キュンとする」
感情や表情まで伝わってくるような、こうした日本語の表現力は、擬音語や擬態語のような表現までを伝達手段にしています。
もっとも、僕たち現代人は、言葉を一瞥しただけで難しい(だろう)とか、先入観を抱くようになっています。実際、文字を見れば、内容を読むまでもないときびすをかえす人も多いでしょう。更には、文字を読んだとしても、もっと簡単にして欲しいと自分を基準にしてしまいます。更に、更には、その内容が読み手自身や読み手の好きなものを非難するようなことでもあれば、もはや、書き手は、読み手の「敵」としてレッテルを貼られることもしばしば起きています。
その結果、文字や言葉というものは、自分のような人に向けて最適な読みやすさで発せられるべきで、難解な言葉など意味がないと言わんばかりに、「無視」をすることになります。もちろん、言葉を発している人が、ゆくゆくは、その「無視」されることになる。あるいは、まったく見えないような場所で、風評が流れ始めてしまう。
たしかに、これだけ情報が溢れているのだから仕方がないと言うべきかもしれないでしょう。でも…
僕たちは、この時代に、何を基準にしてコミュニケーションとするのか、改めて考えてみるべきでしょう。自分には理解できないと思う内容を少しでも理解しようとする人がいるならば、その人は「自分の可能性を広げよう」とする人たちです。
紀貫之が、こんな凄い日本語を生みだしてくれた人だったとは、学生時代には、気づきもしなかったのですが、こんなことを書いてみます。
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