「地域」と「知域」。この二つの言葉は、最初の一文字を置き換えただけなので、かなり似通ったものであるという連想が働くかもしれないが、よくよく比べてみると全然違う、まったく異なったものである。
それでも敢えて、僕は、この二つの言葉の共通点と相違点について説明しようと思う。
共通点は、人と人の繋がり。
「地域」とは、僕たちが生まれて暮らしているこの世界(物理空間)そのものを表わしている。もっとも「地域」と聞けば、より具体的な領域として、「どの地域」を指すものだと考えるだろう。そして、そのような具体的な「地域」には、その「地域」を所有している人、あるいは、共同体がいるはずであり、そこに「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」が自ずと意識されるだろう。つまり、「地域」を考える上でもっとも大切なことは、僕たちは、すぐさま連想できるような「地域」を経験的に知っているということだ。
一方、「知域」とは、インターネットによって繋がっている世界(サイバー空間)を通じて「(意識されうる)人と人の繋がり」を表わしている。とても簡単だが、これだけだ。
つまり、「地域」と「知域」のどちらも「人と人の繋がり」を表わそうとしている。これが共通点だ。
相違点は、意識。
「地域」には、「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」があって、「知域」には、「(意識されうる)人と人の繋がり」がある。だから「地域」と「知域」では大きな違いがあるのだけれど、敢えてあげるべき相違点とすれば、「まさにそこにあるリアリティ」と「意識しないと捉えようとないリアリティ」ということになる。つまり、「知域」を意識しない人には、そのリアリティはないように思われる。
――
さて、この「意識」の違いがおこるメカニズムについて説明したい。しかし、このような「意識」を正しく理解するには、ちょっとした記号学的な知識が必要になる。少し大変だと思うけれど、頑張ってついてきて欲しい。
では…
ソシュールの記号学。
フェルディナン・ド・ソシュールは、記号を次のように定義した。
記号内容(意味されるもの、シニフィエ)と記号表現(意味するもの、シニフィアン)がそれである。交通標識のようなものは、標識(記号内容)が指示(記号表現)を表わしている。
もし、ここに解釈のズレが発生すると、交通標識は意味を果たさないことになる。
では、次のような状況で、僕たちが経験的に意味をしっかりと区別できることを考えてみよう。
ソシュール的な記号の解釈で言えば、僕はコーラを渡そうとしたのだから、君がムッとするのはおかしい。しかし、君は、メモの内容から「2本のうちのコーラは自分のもの」と解釈した。そして、僕が既に飲んでいるコーラではない、もう1本のコーラが自分のコーラだと考えたはずだ。
ソシュール的な記号の解釈は、権威主義的な力関係がはっきりしている場合には、ある意味で絶対的である。もし、僕がマフィアのボスで、君がひ弱な日雇い労働者であったなら、いちいち意味の違いを指摘して反感を買うようなことはしたくないだろう。実際、ソシュールは、構造主義と呼ばれる大きな権力を持つ人たちにとっては都合の良いイデオロギーを展開し、記号学はその中心的な考えになった。
パースの記号論。
ソシュールの記号論に対して、パースの記号学がある。
パースの記号論では、記号内容を対象と解釈項の二つの概念に分けている。その結果、対象を表現するのに代表項が用いられ、それを解釈項として捉えることになる。
交通標識を例にして具体的に考えてみよう。
対象とは標識である。代表項とは指示である。解釈項とは、それを見ている僕(あるいは、君)の意識した意味である。
もっとも、交通標識の意味を生活者が独自に解釈すると、さまざまな問題になりうる。
では、コーラの話に置き換えて考えてみよう。
対象は、テーブルに置かれた2本のコーラである。代表項とは、メモに書かれた内容である。解釈項とは、僕と君がそれぞれに意識した意味である。
パースの記号論では、解釈項が人の数だけ存在することになる。僕が2本あるうちの1本のコーラを自分のものとして捉え、既に飲み始めているのであれば、残された1本のコーラは君のものである[意味A]…と理解することも可能である。しかし、僕は、2本のコーラは2人のものであるが、どのような配分で分けるべきか指示されていないので、少しだけでも君に分けてあげればよい[意味B]…と理解することも可能である。
参照の違いが解釈の違い。
この違いは、現実空間に存在する対象をどのように参照しているかということから生じる。メモを読むにあたり、[意味A]では、「2本のコーラ(を飲む)」を参照し、[意味B]では、「2本のコーラのうちの1本(を飲む)」を参照している。
ソシュールの記号学では、異なった解釈が可能な場合、全体主義的な思想が優先して、力関係の強い方の解釈が優先される。だから、強い権力を持った者たちは、自分たちに都合のよい意味を定義した。しかし、だからと言って、一旦定義された意味は、状況に応じて意味を読み変えてもよい訳ではない。だから、ソシュールの記号学であれ、パースの記号論であれ、異なった読み取りができるような記号の定義そのものが、根源的な問題となる。
いずれにせよ、現実空間では、このような2つの記号的解釈の違いがある。
サイバー空間上の記号論。
サイバー空間上には、物質的なものが存在しない。映像や音声などに加えて、三次元的な表現もあるので、あたかも現実空間と同じようなものを想像する人もいるかもしれないが、現実空間で得られるような物質的な存在ではないことは間違いない。勿論、将来的には、現実空間における感覚や感触を身体や脳に信号的に送ることができるような技術が生まれるかもしれないが、今日現在、そのようなものは存在していない。
このようなサイバー空間では、記号論は歪になる。サイバー空間には、現実空間にあるような物質的なものが存在しないから、もっぱら、文字や音声によるコミュニケーションが中心になる。映像や音声も存在するが、一方から他方へ見せられるプレゼンテーション的な意味合いが強いことは否定できない。
サイバー空間上の他者が話す言葉は、パース記号論において代表項として考えられるような記号表現である。その他者は、現実空間にある特定の事物、あるいは、他者の想像している事物を「対象」として表現する。そして、僕がその言葉を聞くとき、僕は、僕のリアリティには存在しない事物を意識することが必然となる。しかし、現実には、他者にとって意識されている対象を、僕がリアリティを持って意識することはできない。
勿論、現実空間において、僕も他者もその対象を知っているのであれば、状況は異なる。
より具体的な参照世界の構築。
サイバー空間上では、現実空間と同じように機能できる参照世界が必要となっている。
たしかに、グーグルのような会社が、地球上に存在するさまざまな情報をインデックス化することができれば、現実空間の多くの物質を参照できるようになると思う人もいるかもしれない。しかし、それは現実に存在するものと似ているだけで、リアリティを持っていない。巨大な百科事典は楽しいけれど、現実空間と結びついて初めて意味がある。だからこそ、グーグルは、そうした参照世界をサイバー空間上に構築しようとしているはずだ。
それでも、「地域」と「知域」の間にある意識の中で、最後まで埋まらない可能性があるとすれば、それはリアリティだろう。それは、僕や君にとってのリアリティだ。
現実空間であれば、同じ場所を訪れたり、同じ物を見たりすることで、以前、経験したことを思い出すことができる。あの時、僕が言った言葉に対して、君がムッとしたことを君は笑って話してくれるかもしれない。しかし、そのようなことが可能なのは、現実空間では、僕も、君も、場所も、物も、物質的に存在しているというリアリティがあるからだ。
ところが、サイバー空間上では、このリアリティははかない。
現実空間では、僕は君の機能の表情を覚えていて、「今日の調子はどうだい?」と声をかけることができるが、サイバー空間上では、この挨拶でさえ、リアリティに欠いている。
だからこそ、「知域」のような繋がりを意識することが重要になる。
以下の図は、知域の人と人が、それぞれの解釈項から双方に参照しあう対象を表わしている。本来であれば、片方が、記号表現としての代表項を表わし、もう片方が、記号内容としての解釈項を表わすはずなのだが、「知域」で行なわれるコミュニケーションは、おおよそこのような関係になるはずだ。もちろん、現実空間と同じように、どちらかでも率先して、具体的な物を作り出すことができれば、このような漠然とした関係は解消されるはずだ。
上図は、片方が、対象を知らない場合。
下図は、双方が、対象をどのように捉えればよいのかわからない場合。
よりリアルな意味関係へ。
「知域」から生み出されるような定義が生まれるとしたら、以下のような関係で表わされるだろう。具体的な物を作り出したのであれば、この菱形の堅牢性は極めて高いものになるだろう。
このような関係とよく似た関係を表わしておこう。
この関係は、マスメディアなどによって提示される記号表現を表わしている。マスメディアは、頂点の代表項に位置して、対象の意味表現を行ない、解釈項にある僕や君がその意味を理解する役割を担っていることを表わしている。勿論、僕も、君も、現実空間に存在する対象に触れて知っているのであれば、それぞれの経験から、より適切な意味の理解をすることができるだろう。しかし、ろくに対象のことを知らない状況では、代表項の構築する記号体制がよっぽどしっかりとしたものでなければ、僕も、君も、どこかで疑わしいと思うことになる。まして、僕と君が、直接会話を始めると、2人が一致する解釈と異なった解釈であることが不自然になってくる。
そして、「知域」とは、僕と君が直接的に向き合って、代表項としての記号表現を模索することにほかならない。
知民のリアリティ
「知域」における人々を「知民」と呼ぶとすれば、この2つの記号的解釈のいずれを選択すべきかはもはや明白だろう。よりリアリティを求める関係を目指すならば、僕たちは、サイバー空間上の隣人と向き合って、お互いの考えを見つけ出すことに意識を向けてみるのがよいだろう。
それでも敢えて、僕は、この二つの言葉の共通点と相違点について説明しようと思う。
共通点は、人と人の繋がり。
「地域」とは、僕たちが生まれて暮らしているこの世界(物理空間)そのものを表わしている。もっとも「地域」と聞けば、より具体的な領域として、「どの地域」を指すものだと考えるだろう。そして、そのような具体的な「地域」には、その「地域」を所有している人、あるいは、共同体がいるはずであり、そこに「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」が自ずと意識されるだろう。つまり、「地域」を考える上でもっとも大切なことは、僕たちは、すぐさま連想できるような「地域」を経験的に知っているということだ。
一方、「知域」とは、インターネットによって繋がっている世界(サイバー空間)を通じて「(意識されうる)人と人の繋がり」を表わしている。とても簡単だが、これだけだ。
つまり、「地域」と「知域」のどちらも「人と人の繋がり」を表わそうとしている。これが共通点だ。
相違点は、意識。
「地域」には、「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」があって、「知域」には、「(意識されうる)人と人の繋がり」がある。だから「地域」と「知域」では大きな違いがあるのだけれど、敢えてあげるべき相違点とすれば、「まさにそこにあるリアリティ」と「意識しないと捉えようとないリアリティ」ということになる。つまり、「知域」を意識しない人には、そのリアリティはないように思われる。
――
さて、この「意識」の違いがおこるメカニズムについて説明したい。しかし、このような「意識」を正しく理解するには、ちょっとした記号学的な知識が必要になる。少し大変だと思うけれど、頑張ってついてきて欲しい。
では…
ソシュールの記号学。
フェルディナン・ド・ソシュールは、記号を次のように定義した。
記号内容(意味されるもの、シニフィエ)と記号表現(意味するもの、シニフィアン)がそれである。交通標識のようなものは、標識(記号内容)が指示(記号表現)を表わしている。
もし、ここに解釈のズレが発生すると、交通標識は意味を果たさないことになる。
では、次のような状況で、僕たちが経験的に意味をしっかりと区別できることを考えてみよう。
テーブルには2本のコーラとメモが置いてある。メモには、「2人で飲むように」と書かれている。僕が先ず、そのうちの一本を開けて、コーラを飲んでいる。そこに君が現われ、メモを見て、僕に「コーラをくれ」と言う。僕が飲みかけのコーラを渡そうとすると、君はムッとする。この状況の中で、君は、どのコーラを意識していたのだろうか?そして、なぜ、君がムッとすることになったのか?
ソシュール的な記号の解釈で言えば、僕はコーラを渡そうとしたのだから、君がムッとするのはおかしい。しかし、君は、メモの内容から「2本のうちのコーラは自分のもの」と解釈した。そして、僕が既に飲んでいるコーラではない、もう1本のコーラが自分のコーラだと考えたはずだ。
ソシュール的な記号の解釈は、権威主義的な力関係がはっきりしている場合には、ある意味で絶対的である。もし、僕がマフィアのボスで、君がひ弱な日雇い労働者であったなら、いちいち意味の違いを指摘して反感を買うようなことはしたくないだろう。実際、ソシュールは、構造主義と呼ばれる大きな権力を持つ人たちにとっては都合の良いイデオロギーを展開し、記号学はその中心的な考えになった。
パースの記号論。
ソシュールの記号論に対して、パースの記号学がある。
パースの記号論では、記号内容を対象と解釈項の二つの概念に分けている。その結果、対象を表現するのに代表項が用いられ、それを解釈項として捉えることになる。
交通標識を例にして具体的に考えてみよう。
対象とは標識である。代表項とは指示である。解釈項とは、それを見ている僕(あるいは、君)の意識した意味である。
もっとも、交通標識の意味を生活者が独自に解釈すると、さまざまな問題になりうる。
では、コーラの話に置き換えて考えてみよう。
対象は、テーブルに置かれた2本のコーラである。代表項とは、メモに書かれた内容である。解釈項とは、僕と君がそれぞれに意識した意味である。
パースの記号論では、解釈項が人の数だけ存在することになる。僕が2本あるうちの1本のコーラを自分のものとして捉え、既に飲み始めているのであれば、残された1本のコーラは君のものである[意味A]…と理解することも可能である。しかし、僕は、2本のコーラは2人のものであるが、どのような配分で分けるべきか指示されていないので、少しだけでも君に分けてあげればよい[意味B]…と理解することも可能である。
参照の違いが解釈の違い。
この違いは、現実空間に存在する対象をどのように参照しているかということから生じる。メモを読むにあたり、[意味A]では、「2本のコーラ(を飲む)」を参照し、[意味B]では、「2本のコーラのうちの1本(を飲む)」を参照している。
ソシュールの記号学では、異なった解釈が可能な場合、全体主義的な思想が優先して、力関係の強い方の解釈が優先される。だから、強い権力を持った者たちは、自分たちに都合のよい意味を定義した。しかし、だからと言って、一旦定義された意味は、状況に応じて意味を読み変えてもよい訳ではない。だから、ソシュールの記号学であれ、パースの記号論であれ、異なった読み取りができるような記号の定義そのものが、根源的な問題となる。
いずれにせよ、現実空間では、このような2つの記号的解釈の違いがある。
サイバー空間上の記号論。
サイバー空間上には、物質的なものが存在しない。映像や音声などに加えて、三次元的な表現もあるので、あたかも現実空間と同じようなものを想像する人もいるかもしれないが、現実空間で得られるような物質的な存在ではないことは間違いない。勿論、将来的には、現実空間における感覚や感触を身体や脳に信号的に送ることができるような技術が生まれるかもしれないが、今日現在、そのようなものは存在していない。
このようなサイバー空間では、記号論は歪になる。サイバー空間には、現実空間にあるような物質的なものが存在しないから、もっぱら、文字や音声によるコミュニケーションが中心になる。映像や音声も存在するが、一方から他方へ見せられるプレゼンテーション的な意味合いが強いことは否定できない。
サイバー空間上の他者が話す言葉は、パース記号論において代表項として考えられるような記号表現である。その他者は、現実空間にある特定の事物、あるいは、他者の想像している事物を「対象」として表現する。そして、僕がその言葉を聞くとき、僕は、僕のリアリティには存在しない事物を意識することが必然となる。しかし、現実には、他者にとって意識されている対象を、僕がリアリティを持って意識することはできない。
勿論、現実空間において、僕も他者もその対象を知っているのであれば、状況は異なる。
「引き戸を開けてまっすぐ歩くと段差になっているから足下に注意して、そのまままっすぐ歩いて、左に折れたらすぐに右の扉を開けるとトイレがあるんだけど、照明のスイッチは、扉の向かい側にあるから…」と、僕の家に来たこともない人には、参照すべき対象がないし、何よりも現実的なリアリティに欠いている。
より具体的な参照世界の構築。
サイバー空間上では、現実空間と同じように機能できる参照世界が必要となっている。
たしかに、グーグルのような会社が、地球上に存在するさまざまな情報をインデックス化することができれば、現実空間の多くの物質を参照できるようになると思う人もいるかもしれない。しかし、それは現実に存在するものと似ているだけで、リアリティを持っていない。巨大な百科事典は楽しいけれど、現実空間と結びついて初めて意味がある。だからこそ、グーグルは、そうした参照世界をサイバー空間上に構築しようとしているはずだ。
それでも、「地域」と「知域」の間にある意識の中で、最後まで埋まらない可能性があるとすれば、それはリアリティだろう。それは、僕や君にとってのリアリティだ。
現実空間であれば、同じ場所を訪れたり、同じ物を見たりすることで、以前、経験したことを思い出すことができる。あの時、僕が言った言葉に対して、君がムッとしたことを君は笑って話してくれるかもしれない。しかし、そのようなことが可能なのは、現実空間では、僕も、君も、場所も、物も、物質的に存在しているというリアリティがあるからだ。
ところが、サイバー空間上では、このリアリティははかない。
現実空間では、僕は君の機能の表情を覚えていて、「今日の調子はどうだい?」と声をかけることができるが、サイバー空間上では、この挨拶でさえ、リアリティに欠いている。
だからこそ、「知域」のような繋がりを意識することが重要になる。
以下の図は、知域の人と人が、それぞれの解釈項から双方に参照しあう対象を表わしている。本来であれば、片方が、記号表現としての代表項を表わし、もう片方が、記号内容としての解釈項を表わすはずなのだが、「知域」で行なわれるコミュニケーションは、おおよそこのような関係になるはずだ。もちろん、現実空間と同じように、どちらかでも率先して、具体的な物を作り出すことができれば、このような漠然とした関係は解消されるはずだ。
上図は、片方が、対象を知らない場合。
下図は、双方が、対象をどのように捉えればよいのかわからない場合。
よりリアルな意味関係へ。
「知域」から生み出されるような定義が生まれるとしたら、以下のような関係で表わされるだろう。具体的な物を作り出したのであれば、この菱形の堅牢性は極めて高いものになるだろう。
このような関係とよく似た関係を表わしておこう。
この関係は、マスメディアなどによって提示される記号表現を表わしている。マスメディアは、頂点の代表項に位置して、対象の意味表現を行ない、解釈項にある僕や君がその意味を理解する役割を担っていることを表わしている。勿論、僕も、君も、現実空間に存在する対象に触れて知っているのであれば、それぞれの経験から、より適切な意味の理解をすることができるだろう。しかし、ろくに対象のことを知らない状況では、代表項の構築する記号体制がよっぽどしっかりとしたものでなければ、僕も、君も、どこかで疑わしいと思うことになる。まして、僕と君が、直接会話を始めると、2人が一致する解釈と異なった解釈であることが不自然になってくる。
そして、「知域」とは、僕と君が直接的に向き合って、代表項としての記号表現を模索することにほかならない。
知民のリアリティ
「知域」における人々を「知民」と呼ぶとすれば、この2つの記号的解釈のいずれを選択すべきかはもはや明白だろう。よりリアリティを求める関係を目指すならば、僕たちは、サイバー空間上の隣人と向き合って、お互いの考えを見つけ出すことに意識を向けてみるのがよいだろう。
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