2012年1月9日月曜日

観照的生活のススメ


観照とは精神世界にあるもの

観照というのは、ギリシア哲学ではよく出てくる言葉です。人間は、基本的に物質に囲まれた世界に生きています。そして、この物質があることで、人間は生きることができる。

生きていく中では、人間は、自然という物質世界が引き起こす災害によって傷ついたり、命を奪われたりするし、そうした物質を巡って、人間同士で争ったりもする訳です。人間は、物質に名前をつけたり、そうした物質に意味や役割を与えることで、精神世界に持ち込んだりもします。

なぜ、精神世界のような表現をするかと言えば、物質世界とは異なっていることをはっきりさせるためであり、損得や好き嫌いといった考え方や感情は、物質世界からではなく、精神世界から生みだされると考えるからです。

物質世界は、すべての人に共通する世界です。しかし、物質世界から完全に切り離された精神世界は、ひとりひとりの個人にしか主観化できないところです。僕たちは、言葉を使って意思疎通をしています。しかし、それは、自分の精神世界の中で呼んでいる概念と他者の精神世界で呼ばれている概念が、たまたま同じであるときにだけ成り立つ話です。つまり、人間は、ある概念をどのように呼ぶかということを他者の言動の中から学び、その概念とその概念に当たる現象や物質の呼び方を関連づけているのです。

観照とは、純粋に精神世界の中だけで、さまざまな思考を行なうことを指しています。


概念で物質を分ける

こうした思考の中で、もっとも純粋な概念には、「美」のようなものがあります。僕たちは、美男、美女のような「美」は、既に述べたように物質的な存在と結びつけて考えます。ところが、「美」という概念が生まれたからこそ、美男、美女というような区別ができたのです。

つまり、物質的な人間は、単に、老いて死んでいくしかなかったのですが、「美」という概念が見つかって、美男、美女として扱われるようになる訳です。

観照の世界で、「美」という概念が生まれ、そうした概念に基づいて物質が分けられている訳です。ここで大切なことは、その順序です。


神さまという概念

哲学者たちは、こうした物質的なものを切り離して、「私が美しく思う(心が落ち着かないような思いになる)のはなぜだろう?」と考えていた訳です。そして、観照とは、このような純粋に精神的世界のだけで思考することを指しています。

たとえば、「死」のようなものも、こうした観照の対象になりました。

ギリシア神話に出てくるたくさんの神さまたちは、人間的な姿をしていながら、死ぬもの(モータル=人間)に対して、死なないもの(インモータル=神さま)として表現されています。神さまたちは、「死」に対する観照によって生みだされた、ある種の哲学的な創造物だと思われます。言い方が曖昧になるのは、神さまという概念が作り出された時には、そもそも、哲学という概念を定義していなかったので、記録に残されていないからです。


概念(イデア)の世界

プラトンが、このような精神世界のなかでも観照によって生みだされる概念をイデアとして呼び、哲学者たちが同様に扱うようになったおかげで、哲学者同士の精神世界を表現しあえるようになったとも言えます。

美男・美女について言えば、単なる生殖行動の対象だった異性が、性的欲求の対象となるのは、「美」によって、「醜」によって、人を区別するようになったからとも言えます。現代哲学は、この区別を境界と呼んだり、「自分の主観」や「世界の疎外」のような表現で、定義の内と外を表現しますが、これらも観照の中で決められるような重要な言葉です。

「概念」があることが当然のように考えている現代人からすれば、「観照って何?」と思ってしまうかもしれませんが、本能のままに動物と変わらない生き方をしていた人間たちが、物質世界のなかで少しづつでも安定した生活が営めるようになったとき、精神世界の安定をさらに探求し始めたことであり、いくつもの概念が生まれたことで、物質世界よりもたくさんの概念が生まれる可能性が広がったと言えます。

勿論、ギリシア時代では、そのような観照的生活は、ごくごく一部の特権的な生活であったことは間違いないでしょう。


現代人と動物

現代社会では、物質世界と同じ暗い、あるいは、それ以上に、精神世界が広がっています。もっとも、既に定義された概念があることから、物質世界についてあまりしらなくても、つまり概念的な境界をいちいち考えなくても、現代人は暮らしていくことができます。その結果、誰かが言っている言葉や意味を鵜呑みにしていても、物質を所有すること、サービスの恩恵を得るといった「結果」だけに注意を向けて選択すれば、現代人の生活では、何も困ることはないという発想が広がろうとしています。

消費文化において選択するということは、ギリシアの哲学者が行なっていたような定義について何も考えなくなることにも近しい状態を生みだします。多くの現代人にとっても、ギリシア哲学者が生きた時代の哲学者以外の人たちにとっても、自分たちの周りにあるものは物質世界でしかありません。その為、精神世界で起こってことに興味関心が向かなければ、物質世界における商品やサービスがもたらす「結果(をもたらすだろうイメージ)」を選択するだけの生活に慣れ親しむことになる、「観照」的な行為の意味についても、ずっと気づかないままでしょう。

現代哲学において、本能や欲求のままに行動しようとする現代人が「動物」と呼ばれるようになってきているのは、まさにこうした観照的生活を捨ててしまったように思われているからではないかと考えます。

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