映画『惑星ソラリス』。
少し古い映画の話をしよう。アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』は、チョークリバーの流れにあわせて脈動する水草の映像から始まる。それは、惑星ソラリスの全体を、知性を持つ有機体である海が被っているという設定を象徴した表現である。人類は、惑星ソラリスとの接触を試みるために宇宙ステーション「プロメテウス」を送り込む。しかし、惑星に近づくにつれて、乗組員たちは精神的な障害を訴えるようになり、自殺者まで現われ、遂には通信も途切れてしまう。そのため、心理学者クリスが原因究明の為に派遣されることになる。
クリスが「プロメテウス」に到着して数日が経過したとき、クリスの前には、10年前に自殺した妻のハリーが現われるようになる。それは、惑星ソラリスの海がクリスの潜在意識を読み取り、その上で送りつけてきた実体であった。
コミュニケーションとは何か?
映画の中で人類は、惑星ソラリスが知的な存在であることを知っている。にもかかわらず、プロメテウスを送り込んで調査しようとする。このような行為を人と人の関係に置き換えて考えてみると、それは、双方の合意を得ない状況では一方的なことであり、暴力的にさえ思われることである。たとえば、突然、近くに見知らぬ人がやってきて、こちらの承諾を得ることもなしにあれこれと詮索をはじめるような状況をイメージしてみて欲しい。もちろん、ソラリスのように星ほどに大きな人はいない。しかし、繰り返しになるが、映画の設定では、惑星ソラリスは、間違いなく知性を持っていることがわかっているのだ。
スカイプ鍋をして見えてくる人格
最近、何度かスカイプ鍋をしてみる。スカイプ鍋とは、テレビ会議ソフト「スカイプ」の音声通話機能を使って、インターネット上で知り合った複数の見知らぬ人たちと一緒に会話を楽しむというものだ。お互いに面識がないので、最初に自己紹介から始めるようにしている。参加者によっては、アイコンに自分の写真を使われていたりする場合もあるけれど、会話の中から得られる印象から相手の人格を思い描いていくような作業がとても面白い。
一通りの自己紹介を聞きながら、相手のイメージを思い描いていくのだけれど、履歴書のようなフォーマットが用意されたものに情報を埋めていくこととは異なって、言葉から想像されるイメージがなによりも大切になってくる。
かりに、[A]のような調査目的で、自分の聞きたい質問項目を埋めるような会話に注力すると、質問をしている人は効率的な回答が得られると思って、満たされた気持ちになるのかもしれないが、会話者同士の相互理解という状態とはほど遠いことになってしまう。
一方で、[B]のように潜在意識を実体化させることはできないが、スカイプ鍋の会話では、お互いの考え方や価値観がわかってくるように思えることがある。参加者のひとりが言ったことを自分の経験に当てはめてみて、自分なりの解釈で相手のイメージとのズレを確認しようとするようなやり取りが多くなることから、自然とそのような感覚を持つようになる。
自分自身を捉える基準。
僕たちは、会話を通して、自分がどのような人間であるかを具体的に述べたり、客観的に述べたりする。もちろん、大勢の見知らぬ人たちの前で自分自身について話すのは、恥ずかしいとか、不遜だとか、さまざまな心理が働くだろうから、自分自身を表現することは日常的な表現活動とは少し違うかもしれない。でも、はじめて会う人によりよく自分をわかってもらうことは大切なことであることは間違いない。その為にも、自分自身をよく知っておく必要がある。
たとえば、自分がどのような人間であるかを具体的に列挙しようとすると、誕生日、誕生地、性別、身長、体重、家族構成、職業などといったことに及ぶことになるだろう。こういった具体的な自分というのは、自分以外の誰にとっても社会的な通念の中で分類されるような属性値でもって分類できる[a]。
また、自分がどのような人間であるかを客観的に列挙しようとすれば、「普段は、こういうことをしている」とか、「何々するのが楽しい」といった具合に、自分自身を第三者が眺めるように観察していることになる[b]。また、このような指摘を親しい友人からされることがある。たとえば、「君は、いつも何々するなあ」と言われてはじめて気がつくようなことである[c]。
ここで言いたいのは、[a]は、社会通念としてあげたような、社会という自分を含むみんなが基準にしているような価値観に基づいて自分を捉えようとしていることであり、[b]は、自分自身が持っている価値観で自分を捉えようとしていることであり、[c]は、友人が自分との付き合いを通じて、友人の価値観に基づいていることである。
観察なのか、調査なのか?
惑星ソラリスに向かった人類は、未知なことが多いにも関わらず、人類の価値観に基づいて惑星ソラリスを理解しようとした。しかし、惑星ソラリスの立場になって考えてみると、あらかじめ同じような価値観を共有している訳でもないから、双方向な会話のようなものではなく、一方的な検査であったことは間違いないだろう。
逆に、惑星ソラリスがプロメテウスの乗組員たちに行なったことは、かれらの潜在意識に及ぶまでに徹底した観察であったことは間違いないだろう。
惑星ソラリスには、人類にはない高度に発達した特殊な感覚器があると考えられる。そのおかげで、人類が行なおうとした調査をするまでもなく乗組員たちを観察できた…と考える人もいるだろう。もっとも、宇宙ステーション「プロメテウス」が惑星ソラリスに近づく間に、惑星ソラリスになにも変化がなかった訳ではない。人類は、その変化に気づいたからこそ、ソラリスに知性を持つ有機体としての海があることを知った。にもかかわらず、自分たちが基準としている価値観(だけ)に基づいて、惑星ソラリスに近づいていったことは間違いない。
相手の意図。
僕たちは、会話を通じて相手の意図をわかろうとする。会話における言葉はある種の論理を表わしているけれど、それがすべてではない。仕草や振る舞いなどの観察を忘れていれば、それは会話そのものが可能な関係さえ破綻させる結末を招くことがある。僕たちは意味を理解した上で、その意味にたいする態度評価を行なう。つまり、意味をおおよそ理解した上で、あるいは、意味を理解できなくても、それを好きか嫌いかといったような自らの態度に表わすのである。もちろん、好きか嫌いかのいった単純に態度を表現することはごく稀なことで、そのような態度表現は仕草や振る舞いに現われたりする。だから、それに気づかない人は、いつまでも、会話が自分だけのものだと思い込んでいる。
もっとも、会話は、どちらか一方の為だけにある調査のようなものでもない。会話の中での表層的なやり取りではなく、相手の本質的な目的が見えれば、その目的に沿った会話の進め方があるはずである。そして、コンピュータを相手に行なうゲームであれば、途中で止めるという方法もあるが、人間を相手に行なう会話では、一方的な会話を強いるようなことがあれば、それは暴力的なものと何も変わらない。
しかし、惑星ソラリスにおいて人類が試みたアプローチは、そのような双方向的なものではなかった。人類が惑星ソラリスに近づくまでにソラリスが示した反応がどのようなものであったか。
潜在意識としての僕(自己概念)。
人が生きている以上、常に、いろいろな経験を重ねることになる。その結果、今すぐに解決できるようなことじゃないにせよ、やり直せることであれば、もう一度やり直したいと思うような事柄があったりする。惑星ソラリスに向かった心理学者クリスの潜在意識には、自殺してなくなった妻ハリーへの思いが強くあったように思える。
今まさに会話をしいているとき、向き合った相手の意図をどのように読み取るべきだろうか。そして、その意図に気がついたとき、相手のことを何処までわかろうとすることが大切なのだろうか。少なくとも、知性を持った惑星ソラリスは、クリスの潜在意識を読み取ることで、妻ハリーの実体とクリスが向き合うことのできる状況を作り出したのだ。
クリスからしてみれば、自分自身が基準になって捉えている自分(I)[a]でも、自分が捉えている客観的な自分(me)[b]でもなく、他者が捉えている自分(you)[c]が、自分の潜在意識に気づているという現実がそこにある。
それは、心理学者が、観察者としての心的疾患を抱えた患者と向き合うことに酷似している。クリスは心理学者である。だが、彼の観察者となった惑星ソラリスは、心的疾患をかかえる患者としてのクリスに潜在意識に向き合うことができる環境をつくり出してみせる。他者には自分のことはわかるはずもないと思いたい気持ちがあっても、惑星ソラリスは、クリスが見間違うことのないハリーを実体化して見せているのである。もはや、他者が、自分でさえ気がつかない、自分の潜在意識に気づくことがあるというリアリティを拒絶することもできない。
知域に生まれるリアリティ。
[A]も[B]も、双方向的なコミュニケーションとは本質的に異なるかもしれない。しかし、僕たちの日常的なコミュニケーションは、多少なりとも、そのような性質のやり取りを含む内容になることも否定できないようにも思う。
映画『惑星ソラリス』は、僕たちのコミュニケーションのあり方を考えさせてくれる。
自分さえ気がつかないような他者の潜在意識にアプローチをするようなことが、専門的な知識を持たない一般人にどこまで可能なのかは怪しい限りである。しかし、どのようなことでも、それを試みた人だけが経験的に抱くことのできるリアリティがある。長い時間一緒にいる人だからこそ感じるリアリティのようなものも、そのひとつだろう。そして、スカイプ鍋のような環境において会話することも、そこでお互いに感じることも、実際にやってみなければわからないことである。見知らぬ者同士だけど、会話をすることによってわかるようになる「知域に生まれるようなリアリティ」というものがあると思う。
たぶん、そのようなリアリティは、社会通念だけが正しいと思い込んでいる人にはなかなか共感を持たれることはないだろう。
しかしあえて、このことを付け加えておきたい。
少し古い映画の話をしよう。アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』は、チョークリバーの流れにあわせて脈動する水草の映像から始まる。それは、惑星ソラリスの全体を、知性を持つ有機体である海が被っているという設定を象徴した表現である。人類は、惑星ソラリスとの接触を試みるために宇宙ステーション「プロメテウス」を送り込む。しかし、惑星に近づくにつれて、乗組員たちは精神的な障害を訴えるようになり、自殺者まで現われ、遂には通信も途切れてしまう。そのため、心理学者クリスが原因究明の為に派遣されることになる。
クリスが「プロメテウス」に到着して数日が経過したとき、クリスの前には、10年前に自殺した妻のハリーが現われるようになる。それは、惑星ソラリスの海がクリスの潜在意識を読み取り、その上で送りつけてきた実体であった。
コミュニケーションとは何か?
映画の中で人類は、惑星ソラリスが知的な存在であることを知っている。にもかかわらず、プロメテウスを送り込んで調査しようとする。このような行為を人と人の関係に置き換えて考えてみると、それは、双方の合意を得ない状況では一方的なことであり、暴力的にさえ思われることである。たとえば、突然、近くに見知らぬ人がやってきて、こちらの承諾を得ることもなしにあれこれと詮索をはじめるような状況をイメージしてみて欲しい。もちろん、ソラリスのように星ほどに大きな人はいない。しかし、繰り返しになるが、映画の設定では、惑星ソラリスは、間違いなく知性を持っていることがわかっているのだ。
人類は、惑星ソラリスに対して調査をはじめている[A]。
惑星ソラリスは、人の潜在意識を読み取り、それを実体化させている[B]。この[A]と[B]の行為は、コミュニケーションと言えるのだろうか?
スカイプ鍋をして見えてくる人格
最近、何度かスカイプ鍋をしてみる。スカイプ鍋とは、テレビ会議ソフト「スカイプ」の音声通話機能を使って、インターネット上で知り合った複数の見知らぬ人たちと一緒に会話を楽しむというものだ。お互いに面識がないので、最初に自己紹介から始めるようにしている。参加者によっては、アイコンに自分の写真を使われていたりする場合もあるけれど、会話の中から得られる印象から相手の人格を思い描いていくような作業がとても面白い。
一通りの自己紹介を聞きながら、相手のイメージを思い描いていくのだけれど、履歴書のようなフォーマットが用意されたものに情報を埋めていくこととは異なって、言葉から想像されるイメージがなによりも大切になってくる。
かりに、[A]のような調査目的で、自分の聞きたい質問項目を埋めるような会話に注力すると、質問をしている人は効率的な回答が得られると思って、満たされた気持ちになるのかもしれないが、会話者同士の相互理解という状態とはほど遠いことになってしまう。
一方で、[B]のように潜在意識を実体化させることはできないが、スカイプ鍋の会話では、お互いの考え方や価値観がわかってくるように思えることがある。参加者のひとりが言ったことを自分の経験に当てはめてみて、自分なりの解釈で相手のイメージとのズレを確認しようとするようなやり取りが多くなることから、自然とそのような感覚を持つようになる。
自分自身を捉える基準。
僕たちは、会話を通して、自分がどのような人間であるかを具体的に述べたり、客観的に述べたりする。もちろん、大勢の見知らぬ人たちの前で自分自身について話すのは、恥ずかしいとか、不遜だとか、さまざまな心理が働くだろうから、自分自身を表現することは日常的な表現活動とは少し違うかもしれない。でも、はじめて会う人によりよく自分をわかってもらうことは大切なことであることは間違いない。その為にも、自分自身をよく知っておく必要がある。
たとえば、自分がどのような人間であるかを具体的に列挙しようとすると、誕生日、誕生地、性別、身長、体重、家族構成、職業などといったことに及ぶことになるだろう。こういった具体的な自分というのは、自分以外の誰にとっても社会的な通念の中で分類されるような属性値でもって分類できる[a]。
また、自分がどのような人間であるかを客観的に列挙しようとすれば、「普段は、こういうことをしている」とか、「何々するのが楽しい」といった具合に、自分自身を第三者が眺めるように観察していることになる[b]。また、このような指摘を親しい友人からされることがある。たとえば、「君は、いつも何々するなあ」と言われてはじめて気がつくようなことである[c]。
ここで言いたいのは、[a]は、社会通念としてあげたような、社会という自分を含むみんなが基準にしているような価値観に基づいて自分を捉えようとしていることであり、[b]は、自分自身が持っている価値観で自分を捉えようとしていることであり、[c]は、友人が自分との付き合いを通じて、友人の価値観に基づいていることである。
観察なのか、調査なのか?
惑星ソラリスに向かった人類は、未知なことが多いにも関わらず、人類の価値観に基づいて惑星ソラリスを理解しようとした。しかし、惑星ソラリスの立場になって考えてみると、あらかじめ同じような価値観を共有している訳でもないから、双方向な会話のようなものではなく、一方的な検査であったことは間違いないだろう。
逆に、惑星ソラリスがプロメテウスの乗組員たちに行なったことは、かれらの潜在意識に及ぶまでに徹底した観察であったことは間違いないだろう。
惑星ソラリスには、人類にはない高度に発達した特殊な感覚器があると考えられる。そのおかげで、人類が行なおうとした調査をするまでもなく乗組員たちを観察できた…と考える人もいるだろう。もっとも、宇宙ステーション「プロメテウス」が惑星ソラリスに近づく間に、惑星ソラリスになにも変化がなかった訳ではない。人類は、その変化に気づいたからこそ、ソラリスに知性を持つ有機体としての海があることを知った。にもかかわらず、自分たちが基準としている価値観(だけ)に基づいて、惑星ソラリスに近づいていったことは間違いない。
相手の意図。
僕たちは、会話を通じて相手の意図をわかろうとする。会話における言葉はある種の論理を表わしているけれど、それがすべてではない。仕草や振る舞いなどの観察を忘れていれば、それは会話そのものが可能な関係さえ破綻させる結末を招くことがある。僕たちは意味を理解した上で、その意味にたいする態度評価を行なう。つまり、意味をおおよそ理解した上で、あるいは、意味を理解できなくても、それを好きか嫌いかといったような自らの態度に表わすのである。もちろん、好きか嫌いかのいった単純に態度を表現することはごく稀なことで、そのような態度表現は仕草や振る舞いに現われたりする。だから、それに気づかない人は、いつまでも、会話が自分だけのものだと思い込んでいる。
もっとも、会話は、どちらか一方の為だけにある調査のようなものでもない。会話の中での表層的なやり取りではなく、相手の本質的な目的が見えれば、その目的に沿った会話の進め方があるはずである。そして、コンピュータを相手に行なうゲームであれば、途中で止めるという方法もあるが、人間を相手に行なう会話では、一方的な会話を強いるようなことがあれば、それは暴力的なものと何も変わらない。
しかし、惑星ソラリスにおいて人類が試みたアプローチは、そのような双方向的なものではなかった。人類が惑星ソラリスに近づくまでにソラリスが示した反応がどのようなものであったか。
潜在意識としての僕(自己概念)。
人が生きている以上、常に、いろいろな経験を重ねることになる。その結果、今すぐに解決できるようなことじゃないにせよ、やり直せることであれば、もう一度やり直したいと思うような事柄があったりする。惑星ソラリスに向かった心理学者クリスの潜在意識には、自殺してなくなった妻ハリーへの思いが強くあったように思える。
今まさに会話をしいているとき、向き合った相手の意図をどのように読み取るべきだろうか。そして、その意図に気がついたとき、相手のことを何処までわかろうとすることが大切なのだろうか。少なくとも、知性を持った惑星ソラリスは、クリスの潜在意識を読み取ることで、妻ハリーの実体とクリスが向き合うことのできる状況を作り出したのだ。
クリスからしてみれば、自分自身が基準になって捉えている自分(I)[a]でも、自分が捉えている客観的な自分(me)[b]でもなく、他者が捉えている自分(you)[c]が、自分の潜在意識に気づているという現実がそこにある。
それは、心理学者が、観察者としての心的疾患を抱えた患者と向き合うことに酷似している。クリスは心理学者である。だが、彼の観察者となった惑星ソラリスは、心的疾患をかかえる患者としてのクリスに潜在意識に向き合うことができる環境をつくり出してみせる。他者には自分のことはわかるはずもないと思いたい気持ちがあっても、惑星ソラリスは、クリスが見間違うことのないハリーを実体化して見せているのである。もはや、他者が、自分でさえ気がつかない、自分の潜在意識に気づくことがあるというリアリティを拒絶することもできない。
知域に生まれるリアリティ。
[A]も[B]も、双方向的なコミュニケーションとは本質的に異なるかもしれない。しかし、僕たちの日常的なコミュニケーションは、多少なりとも、そのような性質のやり取りを含む内容になることも否定できないようにも思う。
映画『惑星ソラリス』は、僕たちのコミュニケーションのあり方を考えさせてくれる。
自分さえ気がつかないような他者の潜在意識にアプローチをするようなことが、専門的な知識を持たない一般人にどこまで可能なのかは怪しい限りである。しかし、どのようなことでも、それを試みた人だけが経験的に抱くことのできるリアリティがある。長い時間一緒にいる人だからこそ感じるリアリティのようなものも、そのひとつだろう。そして、スカイプ鍋のような環境において会話することも、そこでお互いに感じることも、実際にやってみなければわからないことである。見知らぬ者同士だけど、会話をすることによってわかるようになる「知域に生まれるようなリアリティ」というものがあると思う。
たぶん、そのようなリアリティは、社会通念だけが正しいと思い込んでいる人にはなかなか共感を持たれることはないだろう。
しかしあえて、このことを付け加えておきたい。
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