2012年1月9日月曜日

知域とは、なにか?

知域は、積集合。

僕は、知域を以下のように記述しようと思う。
[人]―(知)―[人]

(知)を受け取った人が、自分なりにその「知」を解釈するのに、「()」のような演算子が書かせないと思っている。それは、数式を 
y = f(x)
と記述するのに似ている。具体的には、
人(知)
を数式のように展開すると、「この[人]が捉えている知」が得られるんだと思う。このひとりひとりの捉えている(知)は、リアリティのようなものなんじゃないだろうか?

そこで、冒頭の式を書き換えるとすれば、
[人A]―(知)―[人B]
の関係で言えば、
人Aの知に対するリアリティ ∩ 人Bの知に対するリアリティ
となる。この数式の「∩」は、それぞれのリアリティから共通部分を取り出すような意味を表している。(積集合

問題は、このような共通部分「人A∩人B」を双方が自覚的に共有しようとする継続的な関係なんだと思う。


ひとりひとりが捉える意味がある

交通標識のようなものでさえ、その標識の意味を厳密に言葉だけで表そうとすると、なかなか思うようにならない。どこかしら曖昧な解釈が出てくるように思う。

自分では、うまく説明できていると思うような文章であっても、別の人が読めば、自分の込めた思い、表わそうとした意味と異なっていたりすることはよくあることというより、それが当たり前のことだと思われる。

ひとりひとりの価値観が異なることは、急にそのようになったのではなく、昔からそうであっただけだ。しかし、次から次へと新しいものが出てくるような時代になって、それぞれの個人の興味関心が異なってくると、もはや、他者が話し始めることが何の話なのか、わからないような状況が起きてくる。

つまり、知域とは、そのようなひとりひとりの(知)の異なる存在に気づいている人たちにとっては当たり前のことを言っていることに過ぎない。しかし、そのことに気づいていない人たちにとっては、自分にはわからないことを言っているようにしか聞こえないだろう。


無数の見出し、たくさんの意味。

ウィキペディアには、日本語だけで120万語以上の見出しがある。市販されている一般的な国語辞典にはおおよそ30万語程度の見出しがある。僕たちは、国語辞典の見出しでさえ、そのすべてを知っていることはないだろう。まして、ウィキペディアの見出し語の数は、途方もない数だと思う。

しかし、そのウィキペディアでも、見つからない言葉がある。それ程、僕たちは、異なった(知)を基準にした生活を行ってきている。



そして、同じ言葉であっても、いくつもの意味を持つことができる為に、人それぞれによって異なる(知)をでわかり易く表現することはできない。それが、この現代社会の多様化が生み出している現実なんだと思う。


リアリティを共有できる関係としての「知域」

最初こそ、相手の正体がだれなのかわからないような関係であっても、「人A∩人B」のようなリアリティを築くことができる関係を築くことがとても重要になってきている。

だからこそ、「知域」が必要なんだと思う。


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