2012年1月11日水曜日

知域とクラウドアイデンティティ問題

「クラウドアイデンティティ問題」。

岡田斗司夫さん(以下、敬称略)が、『評価経済社会』のなかで「クラウドアイデンティティ問題」を取り上げている。
「私が”私たり得る”部分」、つまり自我領域や自我境界そのものがネットと一体化しネットに溶け出している状態。
それを私は、魂がクラウドの中に溶けていってしまう「ネットクラウド・アイデンティティ問題」と呼んでいる。
ネットワーク社会では、「自分の本音」が持ちにくい。

twitterでRTしたり同意したりしていると、人の考え方や価値観をどんどん取り入れているだけの自分に気がつく。p279

クラウド・コンピューティング。

まず、クラウド・アイデンティティのクラウドとは、クラウド・コンピューティングのようなイメージでとらえるとわかり易い。

インターネットのようなコンピュータ・ネットワークでは、ひとつのサーバ・システムだけにアクセスが集中しないようにする為に、負荷分散という処理が施されている。その結果、ひとつひとつのデータは、ネットワーク上に存在する複数のサーバ・システムのいずれかに必ず存在するのだけれど、このデータはここにあるといったように厳密には特定しづらい状態にある。少なくとも、ユーザ側から見れば、そういったことを意識せずにデータにアクセスできるような仕組みになっている。クラウド・コンピューティングとは、そのようなネットワーク構造を雲のように見立てて表現したものである。


クラウド・アイデンティティ。

次に、アイデンティティには、「自己同一性」や「帰属意識」のような異なった訳語が使われることがある。

岡田が「私が”私たり得る”部分」と述べていることから、アイデンティティには「自己同一性」のような訳語がふさわしいように思われる。また、さまざまな人の考え方や価値観をどんどん取り入れることで「魂がクラウドの中に溶けていってしまう」と表現していることから、「クラウドアイデンティティ」とは、魂の中にあるのではなく、ネットワーク上にあるように思われる。

呟きのようなデータは、クラウド・コンピューティングのどこかに保存されている。だから、「クラウドアイデンティティ問題」では、身体と魂がワンセットになった状態ではなく、アイデンティティの断片となっている無数の呟きがクラウド・コンピューティングの中で保存された状態にある。それはあたかも、魂がバラバラになって、クラウド・コンピューティング構造の中に組み込まれてしまっているような状態に近い。

「クラウドアイデンティティ問題」とは、そうした、魂=ネットワークのように意識されるような極端な精神状態を指していて、ネットワーク社会なくしては、アイデンティティが成り立たないような「自己同一性」として捉えた方がわかりやすいだろう。


外部性記憶。

脳科学では、外部性記憶と呼ばれる知識がある。

「このことは、あの本に書いてあった」
「これは、あの人に聞いた方がいいだろう」

そういった具合に、人は、ある種の記憶を自分の記憶ではなく、外部性記憶として持とうとする。人と人の繋がりのなかで、自分の記憶を別の人の記憶に頼ろうとする人間の傾性を考えると、人は、ネットワーク社会の以前からも「クラウドアイデンティティ問題」を抱えているんじゃないか?と思う人もいるかもしれない。

もっとも、このような外部性記憶は、自分の不得手な領域の問題を外部化しようとすることであって、「クラウドアイデンティティ問題」のように、自分自身の魂を外部化しようとすることとは大きく異なる。

また、クラウド・アイデンティティ自体は、サイバー空間上にいる人物との間に、特定の記憶を委ねることとしてみなせるので、それ自体は、外部性記憶であるといえる。


知域は、クラウド・アイデンティティである。

知域は、サイバー空間上において「(意識されうる)人と人の繋がり」であり、現実空間における地域が「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」であるように、実践的な領域だ。だから、知域は、クラウド・アイデンティティになりえる。

しかし、同時に、知域は、岡田が指摘するような「クラウドアイデンティティ問題」を引き越すような背景になりえるはずである。

そのような問題を未然に防ぐには、
[人]―(知)―[人]
のように、(知)を介して繋がった人の存在を意識し、対話的なやり取りにこころがけることだ。知域で繋がる人たちは、その対話を通じて、よりアイデンティティを強くすることができるはずだ。

いずれにせよ、サイバー空間であれ、現実空間であれ、僕が、僕らしくあるのは、僕と人との繋がりの中で、どこまでが共通しており、どこからが異なっているかを具体的に意識することにほかならない。それは、向き合う人の一個的な価値、つまり、この世の中に一人しかいない存在であることを認めると同時に、認められることである。だから、そのような感覚が芽生える環境をもって、アイデンティティとして呼ぶならば、知域には、「自己同一性」ではなく、「帰属意識」のようなニュアンスを感じることになるだろう。


フッサールの間主観

例えば、現実空間に存在する家があるとしよう。君は、家を正面から眺めるだけで、家の側面があるものとしてイメージしている。当然、家には、裏面もあるとイメージしている。このようなイメージは、ほとんど無意識であったりするし、いちいち意識するものではないだろう。もっとも、大切なことは、家とはそのようなものだと君が経験的に確信しているからこそ、最初に、家であると認識できるのだ。

家の正面を見ている君の主観を、「側面を見ている想像上の君の主観、背面を見ている想像上の君の主観」たちが、ひとつの完結した家のイメージを作り出している。フッサールは、このような「(経験から生み出された)想像上の私」たちを他我(Self-Other)と呼んだ。また、他我にたいして、「今、ここにいる、この私」を自我(Self)と呼んだ。そして、家を正面から見ている自我の主観を、無数の他我による主観が協調するようにして、家のリアリティを生み出していると考えた。

このような、フッサールの間主観(他主観)の概念を知っておくと、「クラウドアイデンティティ問題」や「知域」について正しい理解が得られるようになる。


他我による主観。

では、「クラウドアイデンティティ問題」を抱えている人の場合、サイバー空間にある人の考え方や価値観を取り入れようとする時、間主観はどのように働いているか考えてみよう。

Twitterやfacebookのようなソーシャル・ネットワーク・サービスでは、ユーザのメッセージのほとんどが文字で表現されている。この場合の文字に伝えようとするものには、サイバー空間上の記号論が当てはまるだろう。

つまり、ユーザが目にするメッセージそのものは代表項のような記号表現である。

例えば、それは、国語辞典の見出し語に書かれた解釈文だけを読んでいて、見出し語が何かを知らない状態と似ている。解釈文は代表項(記号表現)であり、解釈文が添えられているはずの対象(記号内容)を知らないことになる。

解釈文を見るだけで対象がどのようなものであるかを経験的に想起することはできる。しかし、対象が何かを文字だけからイメージすることは、相応の経験があることが前提になる。つまり、家の正面を見た時に、家の側面の記憶を補完してくれるような他我たちが重要になってくる。

他我による主観は、経験の産物であり、特定の対象に対する解釈項としてみることができる。対象をイメージする上では部分的に不完全であっても、他我による主観は、ひとつの解釈項として機能することから、対象に辿り着く為に有益だろう。
ところが、経験が乏しい人は、対象に辿り着きようがない。 


「知域」とは、拡張現実感。

フッサール現象学における間主観を念頭において、「知域」の関係を考えてみると、きわめて興味深いことが見えてくる。
[人A]―(知)―[人B]
のように表現できる「知域」は、記号論的には、以下のように表現できる。
[人A]の解釈項と[人B]の解釈項は、双方が認める代表項を導き出す。
つまり、このような知域は、
人Aの知に対するリアリティ ∩ 人Bの知に対するリアリティ
であり、サイバー空間上において、共通するリアリティを生む出す可能性を秘めているのだ。そして、このような現実感は、サイバー空間上で繋がっている人とリアリティを共有したという外部性記憶によって裏付けれるものになる。

自分だけが主観として感じたのではなく、サイバー空間上で繋がっている人も主観として感じたことを確認することによって、リアリティが生まれるのである。これこそ、サイバー空間だからこそ実現しうる拡張現実感(Extended Reality)だといえるだろう。

参考
この研究記事は、とても興味深い現実を表わしている。Facebookに書き込まれた内容から分析できるユーザの人格的特質が、現実空間のユーザときわめて近しいという内容です。サイバー空間においての他我と現実空間においての他我は、人間の感じているリアリティとして一貫しているものであることが伺えるのではないだろうか。

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