2011年8月26日金曜日

ハンナ・アーレントのリアリティ


ハンナ・アーレント]は、政治哲学者である。

これが、僕の最初の理解だったのだけれど、どうも怪しくなってきた。

アーレントの著作『人間の条件』をある人から勧めらるままに読み始めた。

飛びついた結果、ついに『精神の生活』まで手を出して読み始めた。

最近、[アーレントのことば]というブログまで書き始めた。

かなり、やばい。


そういう事情もあり、アーレントという人物への実感がわいてくる。すると、政治哲学者という分類はしっくりこない(注1)

僕なりに捉えてみると、アーレントは「人間の言論と活動」がどのようにして現象化するのかといったメカニズムのようなものに関心を持っているのではないかと思う。これは、従来の哲学者が、人びとの言動を観察しながら、倫理観のような善悪の基準を見い出そうとしてきたことと大きく異なる。

意味の探求によって生まれるもの]というブログでも触れたことだけど、アーレントにとってのリアリティというものは、とにかく「意味」を考えることから始まっている。そして、その始まりの対象が、とにかく古くまで遡る。だけれど、アーレント自身の感じるリアリティが見つかるまでが半端じゃないと思う。

たとえば、ひとつのことばの成り立ちは、一冊の本のなかでも、彼女の著作となっている本の間でも、歴史的な踏襲がとても意味を持ってくる。こうした作業は、本の中に出てくる哲学者たちへの言及でも明らかだ。書物などからでしか辿ることのできない先人の考え方であっても、よくよく噛み砕きながら、自分の考え方との違いを浮き彫りにしていく。まるで、先人の残した思考の道筋やそこに残された足跡と、自分の足跡のひとつひとつをかさねては、その差分を計っているようだ。

今までにも思想家といわれる人たちの本を読んだことはあるけれど、彼らの著作に感じた深遠さや重厚さとは異なる、剛胆さや精緻さに眼を見張ってしまう。それでいて、大胆にもアーレントは、偉大な哲学者たちの思想などおかまいなしに、自分の活動領域に向かって突き進んでいく。

僕の直感が間違っていなければ、アーレントが見つけたいことは、「彼女なりのリアリティ」ではないだろうか。

勿論、たくさんのリアリティを重ねていった先に辿り着くような答えがあるのかもしれない。しかし、リアリティを感じたこの瞬間の次の瞬間においても、アーレントは「意味」を考え始めているように感じる。

そう考えだすと、僕にはついつい抱いてしまう妄想がある。それは、プラトンが自然科学の時代に生まれていたら、どんなことを考えたか?という妄想である。

その時、そこに、アーレントの姿が重なってしまうのだ。

アーレントが「哲学者」としての肩書きを伴ったプラトンを好むかどうかは判らないが、プラトンという人のリアリティを強く感じていたのではないかと思うことがある。

どう思うかは、本人にしか判らない。それがリアリティというもの。


僕が、アーレントに政治哲学者という分類がしっくりこないのは、アーレントという人のリアリティを感じ始めているからかもしれない。

これなら判る。


注1:私は「哲学者」だと言う気はないし、また、「哲学者」でありたいという訳でもないのだから。『精神の生活(上)』p5

2011年8月8日月曜日

社会意識を動かす企業

マイクロクレジットの提唱者であるムハマド・ユヌスは、「ムハマド・ユヌス自伝」で、
欲望は自由な企業活動のための燃料であるだけではない。社会に対する目標もまた、強力な意欲を引き起こす力であり、貪欲さにとって代わることができるものなのだ。社会意識を動かす企業は、欲望を土台にした企業にとって、手強い競争相手となるに違いない。正しいカードを出せば、社会意識が動かす企業は、市場でもとてもうまくやっていけると私は信じている。p280
と述べている。

フラジャイル

僕たちは、些細だけれども、無数な罪の意識によって欲求を抑制しながら、「7つの大罪」のような致命的な大罪を起こさないように生きている。

松岡正剛の「フラジャイル」には、
本書で「弱さ」とか「フラジリティ」という時には、そこには多様な意味が含まれる。弱さ、弱々しさ、薄弱、軟弱、弱小、些少感、瑣末感、細部感、虚弱、病弱、稀薄、あいまい感、寂寥、寂寞、薄明、薄暮、はかなさ、さびしさ、わびしさ、華奢、繊細、文弱、温和、やさしさ、優美、みやび、あはれ、優柔不断、当惑、おそれ、憂慮、憂鬱、危惧、躊躇、煩悩、葛藤、矛盾、低迷、たよりなさ、おぼつかなさ、うつろいやすさ、移行感、遷移性、変異、不安定、不完全、断片性、部分性、異質性、異例性、奇形性、珍奇感、意外性、例外性、脆弱性、もろさ、きずつきやすさ、受傷性、挫折感、こわれやすさ、あやうさ、危険感、弱気、弱み、疎外感、愚者、弱者、劣性、弱体、欠如、欠損、欠点、結果、不足、不具、毀損、損傷…。

おそろらくは辺境性、辺縁感、境界性といったマージナルな感覚もここに含まれる。そのほか、ともかくも「弱々しいとおぼしい感覚や考え方」のすべてが本書の対象となる。それらを一言で何とよぶべきかわからないので、私としては自分がかねて気に入っている言葉で、取り敢えず「フラジャイル」とか「フラジリティ」という言葉をえらんだのだ。
という記述がある。

僕たちは、「良い」という漠然とした価値観から少し外側にはみ出す感覚を持つ時、どこかフラジャイルな感覚を感じているのではないだろうか?勿論、それは、「7つの大罪」とは明らかに異なって、とてもとても小さな後ろめたさだと思うから、「罪」という言葉が当てはまるなんて思わない。
これは社会的な弱さというものである。そこには、ありもしない健常性や正常性という平均値が想定されていることが多く、社会の枠組みを支える為の常識や良識が斧をふるっている。それゆえにその平均的な正常性から少しでも変異したり、ずれた者には、時に悪意を持って弱者の規定がくだされる…
これは弱さや弱者はもっぱら排除の対象とされる歴史を背負ってきた。弱さは異質性や異常性として理解され、ケガレやキヨメの対象にされる。我々の子ども時代にも体験したことであるが、背が低い、顔が黒い、喋り方が変である、汚い町に住んでいる、病弱である…こんなことのすべてが弱いものいじめの標的となる。
松岡正剛のいうフラジリティは、「7つの大罪」のような大きな過ちを犯すはずはないと思っていても、僕たちの心が些細な罪の意識、それは、ちょっと正常なところから外に出てしまうような行為なんだけど、集団の中から批判を受けるかもしれない、という価値観となっているように思う。

本来、価値観とは、自分自身の言動を自律的に制御する為の規範であるはずだ。然し、一旦、そのフラジャイルな性質を持つ(あるいは、そうした案じさせるような)言動の一片でも他者から知られるところになると、暴力が発せられる口実になることに注意しておきたい。

7つの大罪

七つの大罪は、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの著作に八つの「枢要罪」として現れたのが起源である。八つの枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」である。6世紀後半には、グレゴリウス1世により、八つから現在の七つに改正され、順序も現在の順序に仕上げられた。「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「嫉妬」が追加された。
傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲…これらは、「7つの大罪」と呼ばれる。

宗教において、こうした「罪」の意識づけが行われることは、社会的な秩序を維持する上で重要であったと思う。時代の権力者は、こうした宗教的な規範を利用して、民衆の自律的な生活を期することができ、それによって安定的な統治が行えると考えていたのではないだろうか。「ダイモンのごときもの」で指摘した「西洋社会の伝統的な価値観」とは正にこうした価値観そのものであり、人がさまざまな行動を行おうとするとき、その人の意識にブレーキをかける役割を果たしてきたのではないだろうか。

勿論、この「7つの大罪」以外にも、多くの価値観が存在する。罪だけではなく、「美徳」のようなものを認めて、それを礼賛することも社会全体にとって重要な価値観になるだろう。いずれにせよ、こうした価値観は、刹那的な情動や感情、単純な思考から来る行動を抑制したりする上で、とても重要な役割を果たしていると思う。

ダイモンのごときもの

ツイッター上で知り合った方から、ハンナ・アーレントの「人間の条件」を紹介してもらって、読んでいると、次のような記述があった。
…ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p292
ん?このダイモンというのは、映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」に登場する小動物(ダイモン)にそっくりだ。主人公ライラは、いつもダイモン(パンタライモンと呼ばれている)にぴったりと寄り添っていて、さまざまなアクシデントが起こる度に、パンタライモンはライラの相談役となって、状況を打開する大切な役割を果たす。

個人的に、とても気に入っていた映画であり、最初から長編三部作として公開されたのだが、2009年12月、制作会社から続編の制作について断念することが発表された。
北米カトリック連盟が「子供に対し無神論を奨励する映画だ」などとしてボイコット運動を展開したことからアメリカにおける興行収入が振るわなかったことが理由であるとされ、原作者であるフィリップ・プルマンが遺憾の意を述べる事態となっている。
僕が気になるのは、ボイコット運動の理由である「子供に対し無神論を奨励する映画だ」という点。見えるはずの無いダイモンが、映画の中では視覚化され、ライラと会話までしている。こういった演出が気に入らなかったのだろうか?世界的な金融危機の影響も指摘されているのだが、とても残念な結果になってしまった。

ちなみに、アーレントは、冒頭に引用した部分を含む段落として、以下のような文章を書いている。
人びとは、活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうした人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的なアイデンティティの方は、別にその人の活動学がなくても、肉体のユニークな形と声の中に現われる。その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p291-292
例えば、主人公ライラのデーモンには、パンタライモンという名前まである。僕の指摘が間違っていなければ、ギリシャ宗教のなかでは本来見えないはずの存在であるにも関わらず可視化されている。しかし、その場合それは、アーレントがいう「正体」にほかならない。つまり、西洋社会の伝統的な価値観を培ってきたのは、間違いなく、宗教の役割ではなかったか、と思う。となると、この視覚化された「正体」が、宗教に代わってアドバイスを与える存在になる可能性があるとすれば、これは大問題となるのだろう。

つまり、この映画の存在によって、2つの事実が暴露される。

ひとつは、パンタライモンであるダイモンとは、西洋社会の伝統的な価値観を守ってきた宗教の役割そのものであることを暴露する。もうひとつは、宗教は、信者が意識しているかしていないかに関わらず、宗教活動に巻き込んできたことを暴露する。

このように考えてみると、この映画の表現は暗示的ではあるものの、長い間宗教的な価値観が個人の活動を巧みに操っていたと批難しているようにみえる。然し、僕自身は、それは、宗教のみならず、さまざまな価値観が、個人の背後から突き動かすように行動を促していたと考える方が適切だと思う。そして、これまで、そうした暗黙のうちに価値観を刷り込まれていたかもしれないのに、自分は常に主体的な行動をしていたと思っている現代人へ、気づきを与える作品ではなかったか、と思う。