2013年3月19日火曜日

経験を人間から奪うべきかどうか!?

今回も、圏論について書きます。


知識・技術・経験という3つの要素

昔書いたブログなんですが、

> …情報とは漠然とし過ぎている。だから僕は、この情報を、知識・技術・経験という3つの要素に分けて考えてみることにした。

圏論にできるアプローチは、せいぜい知識・技術の範囲なんだな、と思ったことを書いておきます。そして、本当は、ここでいう技術も、身体感覚(入力)や身体動作(出力)を含んだりするような個人の個体差が前提になるとかなり怪しい筈だということを指摘しておきます。

うーん。なんだか、エラッソウな書き方ですね。まあ、とにかく、大事なことを書きおきます。


言語で説明できる範囲

つまり、西洋哲学の伝統そのままに、《言語で説明できる範囲》でしかないということなんです。

もちろん、この場合の言語とは僕たちが日常的に使う人間の話す言語である必要などなくて、図式や方程式などを含めて数学的表現を数学言語として置き換えることができることがとても重要になってきます。更に、計算機科学と繋げれば、つまり、コンピュータやその先にある特殊な計測機器と繋げれば、人間の知覚できないような計測値を含むようになるので、広大な世界、膨大なデータが扱えるようになります。

そうなんだけど、個人の個体差が前提になる経験は、数学的な言語ではどこまでも説明できないんだと思います。これは、凄く難しい概念なのですが、あえて言うと、説明しようとする間も無く、処理されてしまうようになるということなんですね。

まず、僕たちの個体差を含めて、身体のさまざまな特質を普遍的に定義できるようになる筈です。当然、そのような定義を行う人は、僕たちの固有な身体に基づく経験を数学的言語で説明しようとするでしょう。そして、その定義に基づいて設計された特殊な装置が僕たちの身体に埋め込まれるようになれば、僕たちは、僕たちが生まれもった能力を遥かに超えた感覚を自分自身の外に持つようになります。心拍数や脳波のような機械を通じて認識される生体情報は、なんとなくだけど、可視化されて自分自身でも確認できるからリアリティが伴っています。もちろん、この場合のリアリティってのは、なんだ!?って議論は今でもあるんだけど。


自分自身に当てはめる。

こうなると、次のような状況に、自分自身を置いた状況を想像します。

ボールが飛んでくる。
それを避ける(あるいは、気づくこともなく、ボールが当たる)。

飛んでくるボールを素早くかわすのに、いちいち考えるようなことを人間はしていません。これは、運動反射が瞬間的に行なっていることです。

ところが、特殊な装置が僕たちの身体に埋め込まれるようになれば、僕たちが意識する以前に装置が反応して、装置が僕たちの身体を制御するような状況が想定されることになります。

要するに、《言語で説明できる範囲》ということに立ち戻って言えば、この状況での説明は誰が誰に対して行なうのか!?ということになります。

ボールが飛んでくる。
機械が気づき、人間の運動反射が行なわれる時間よりも素早くボールに対応する…
人間は気づかないままの状態が続く。


全てが終わった後のこと

いずれにしても、このような未来映画のようなことが起こったとするならば、言語で説明がされたとしても、それは全てが終わった後のことになるのでしょうね。

このように考えると、身体感覚や、身体動作が、自分の意志の及ばない装置に繋がることは、ある意味で究極的な問題だといえます。つまり、このような問題を自分自身のみに起こる現実としてリアルに突き詰めてみると、早晩、「(このような)経験を人間から奪うべきかどうか!?」という議論になりかねません。

僕は、経験こそ、人間の潜在的な力を引き出してくれるものだと思っています。

なので、このような議論は、そこに至るまでの流れの中で議論されるべきであって、問題が起こってから議論するような状況になるとすれば、そもそもが間違ったことだと思います。勿論、論理的な考え方において分岐があるということは、その分岐の先には、それぞれの先端に向かって進もうとしていた考え方があったはずです。そのような考え方を理解しようとするには、僕たちは、論理や計算だけでなく、自分たちのリアリティに照らして考えることが欠かせません。そして、そのようなリアリティこそ、経験であると思うのです。

だからこそ、経験を人間から奪うような装置が生まれるかもしれない未来に向けて、議論が必要になって来ていると思います。それは、言語から得られるような知識を偏重するような社会では、尚更、重要です。

圏論、はじめました…


圏論、はじめました。

最近、圏論(Category Theory)という学問の勉強をはじめました。

まだまだおぼろげな理解なのですが、圏論というのは、数学者が哲学者のような思考を重ねた結果、生まれてきた学問のようです。もっとも、たいていの人には、哲学も、数学も、やたら小難しいことをいう人たちの学問、というメージがあると思います。そして、そこで話されることは、自分たちの日常生活とは、どこかかけ離れたものというイメージがあると思うのです。

大雑把に言えば、そのイメージは間違っていません。

以下は、僕の理解です。


哲学とは…

哲学者は、問題を見つけることは得意です。ですが、問題を見つけたあと、それをどのように解決するべきかを教えてくれません。もっとも、過去に見つかった様々な問題と絡めて話してくれたりするので、哲学の世界では、過去の問題との関係や、他の問題とどのような関係にあるのかが分かります。

しかし、哲学が生まれてから随分と長い時間が流れている為に、ひとつひとつの問題を理解する為に、昔からある問題を理解しないと、問題の見分けがつかなくなるという問題があることが問題なのです(苦笑)。


数学とは…

数学者は、問題に対する解を見つけるような道具を用意してくれます。たとえば、円周率を何桁も暗記している人が数学者なのかどうかは疑問を持つところですが、正確な解を見つける為に、試行錯誤をされていることは間違いないことです。

もっとも、数学をやっている人たちと話をしてみると、彼ら(彼女たち)は、学校で行われるテストの答案に書くべきような、ただひとつの解を求めるようなことには魅力を感じていないんですよね。だから、数学を好きな人たちの中には、哲学者のように問題を見つけようとする心があるように思うのです。


共通していること

哲学が生まれたあとに数学が生まれたことを考えれば、当然のことなのかもしれませんが、数学の中には哲学が棲んでいるようなところがあり、哲学の中にも数学が棲んでいるようなところがあると思うのです。そして、どちらの学問も誰かに説明しようとする為にあるんだと思います。

僕たちは、言葉を使って生活しています。言葉は、自分の行為や他人の行為を理由づけるときに役立ちます。だから、言葉でうまく説明できないときには、とんでもなく息苦しい状態に陥ります。言論などとか小難しくいうまえに、言葉が、そのような説明の為にあることをもっと再認識しておいた方がいいとよく思ったりします。

それは、説明されるときに思うことなのですが、一生懸命になって説明してくれている人を見ると、それだけでなんだか安心してくるような気持になったりするからです。もちろん、説明内容が大切なことに変わりはないのですが、途中から理解が追いつかなくなるようなことがあったりする訳です。そうなると、問題の説明よりも、そのような問題を理解しようと真摯に向き合う人たちがいて、僕たちの生活が成り立っている部分があるんだよなあ、と実感したりする訳です。


圏論とは…

圏論は、論理と計算をひとつにしたような学問だそうです。

圏論は、従来の数学のイメージを大きく塗り替えるような新しさを感じさせてくれます。もちろん、この場合の数学のイメージというのは、僕が、最近勉強を始めただけのことなので、ご注意ください。圏論そのものは、20世紀には既に始まっています。

哲学のような論理による証明と、計算機科学のような正確な計算に、数学的な視点が加わると考えれば良いのでしょうか?いろいろな事柄になんとかかんとか答えを見つけ出そうとしてくれる訳です。

だから、圏論は、新しい言葉のような役割をしてくれます。もっとも、僕たちが日常的に使っている言葉、日本語とか、英語とかとも全然違うし、コンピュータ言語のようなものとも異なって、数式や図式などを使って表現したりするので、抽象化された言語、メタ言語と呼ばれたりもするようです。


構成性と普遍性

先日、圏論の先生が、数学の中で用いられる「構成性と普遍性」という表現について説明してくれました。それは、以下のようなものです。

まず、好きな人を考えます。その人を誰かに説明しようとするとき、構成性とは、「(具体的に人物を指して)この人です」というような考え方であり、普遍性とは、「(好きな人のタイプを説明するのに)優しくて、かっこ良くて」というような考え方だそうです。

もっとも、このような構成性では、「この人」と言われても、あまりに具体的すぎて分からないし、同様に、このような普遍性では、抽象的すぎて分かりません。だから、より噛み砕いて説明する場合には、構成性の場合には、「普段は、頼りにならないけど。ここ一番というときには、頼りになる」というように構成的に、具体的な条件分けをして説明します。普遍性の場合には、「筋肉質で、足が長く、頭がいい」というように普遍的な条件を追加していきます。

どちらの場合も、条件を細かく出すのですが、どうやって条件付けを記述するかが、とても気になります。


圏論の言葉

圏論の場合、このような条件付けを圏論のやりかた、つまり、圏論の言葉で表現します。

ええ。

結局、ここがずっと問題なんですけどね。

率直にいえば、「…自分たちの日常生活とは、どこかかけ離れたものというイメージがある…」と、冒頭に書いただけに、個人的には、このような説明に立ち返ってしまうことには深い躊躇いがあったりします。確かに、異国の人たちと理解し合うには、その人たちの言葉を学びながらではないと難しかったりしますから、それを思えば、より多くの人たちにとって学びやすい言葉、理解しやすい言葉になるように、圏論が生まれ変わっていけることが理想的です。

しかし、そのような新しい学問、新しく生まれ変わっていく学問という可能性が、圏論にはあるように思っていることも事実です。そして、そこが、もっとも期待しているところでもあるのです。