2015年4月20日月曜日

離散数学

連続的ではないこと

随分前のことになるのだけれど、ジムで知りあった方と話しているときに、「コンピュータ上で言語処理をするなら「離散数学」をやってみたらどうか?」と勧められた。

「数学」でも難しいと尻込みするところなのに、「離散」と前置きされる「数学」だともっと尻込みする人がいるかもしれない。実際、「離散数学」は、高校までの数学でも教えられることがない(筈)。

そもそも「離散」というのは、「連続的ではない」というような意味。じゃあ、「連続的である」ことが対義としてあるのだけど、それは何かと言えば、「離散的でない数学の全て」ということになる。

ざっくり言えば、コンピュータ上での計算は、全て「離散数学」の対象になる。だから、コンピュータが使われるようになって、「離散数学」の講義が大学などで行なわれるようになったようだ。


右か左か

デザイン学科出身の僕には、一見、無縁なように思われることかもしれないけれど、写真論や美学のような世界を突き詰めていくと、哲学、なかでも論理学や記号学が出てくる。

ここもざっくり言えば、なんとなく漠然と右派・左派と分類すると、中立派を自称する人が多数派になったりする。右か左という「連続ではない(状態)」は、自然界にとっては不自然で、「連続である(状態)」こそが自然なのかもしれない。

それでも学際領域、アカデミックな領域では、「連続的である」ところに、「連続的でない」境界を見つけて、右か左というように領域を分ける。

「コンピュータ上で言語処理をするなら「離散数学」をやってみたらどうか?」と勧められた理由は、まさにここにある。

学生時代にやっていた写真論もそうだし、あらゆる学問が、他の学問との境界を見つけては分けられてきたから、0と1から構成されるコンピュータ上では、全ての原理が「離散数学」で考えることができる。


自分から見えるあるモノとモノの関係

哲学は、「「自分から見えるあるモノとモノの関係」を表そうとする学問」だと思うんだけれど、哲学者という存在がドーンと前に出てくることが多くて、「自分から見えるあるモノとモノの関係」を忘れて、云々言ってる人も多い。

実際、数学も哲学から分かれた学問だという人もいる。人は、自然を観察し始めた頃から、不自然な、人工的な領域を切り開いてきたのかもしれない、と思う。

コンピュータを使って、様々な立場の人たちが繋がるようになってくると、「自分から見えるあるモノとモノの関係」をうまく表現することがとても大切だと思う。なにより、コンピュータで繋がっている時には、自分以外の他の人たちが見ているものがわからない。

「僕は右」、「私は左」と誰かが言っていたとしても、自分と比較するものがないときに、「右」も「左」も意味をなさないから、この時代においては、「「自分から見えるあるモノとモノの関係」を表そうとする学問」であったり、「離散数学」のようなものは大切だと思う。