2013年9月11日水曜日

数学者の言葉


数学者たちのやり取り

数学者の人たちのTwitter上でのやり取りを眺めていると、言葉が便利でありながら、どれだけ不都合なものかと思わずにはいられない。

僕たちは、数学者が表わそうとしているのは数式と思いがちである。確かに、その考えは表面的には間違いではないのだけれど、同じ数式をいろんなところに書こうとしている訳ではない。少なくとも、研究という立場から数学に取り組んでいる、彼らがやろうとしていることは、これまでの世界には無かった新しい言葉を作ろうとしている、と考えた方が分かりやすい。

つまり、数学者は、新しい文字、新しい単語、新しい表現、新しい解釈、新しい言語そのものを作ろうとしている(少なくとも、僕はそう思う)。

彼らの書き綴った数式は、僕たちがなにかについて言葉で説明するように、ある事柄を説明している。そして、ここで興味深いことに、数学者というのは、既に知られている数学の知識を自分だけの言葉、つまり、数式に置き換えて説明しようとする。彼らは、誰かに教えられたことや本に書かれていたことを丸暗記しようとはせず、いちいち、「要するに、こういうことだよな」と自分に言い聞かせるように、自分の言葉をつかって定義をするのだ。


自分の言葉で定義をはじめる

数学者のなかには、そうやって自分が理解した内容と少しでも異なった表現をする人には、激しい批判をする人もいる。数学にそれほどの思い入れがない人からすれば、ドン引きしそうなくらいに激しいこともあるらしい。

でも、考えてみれば、そうやって激しくやり合うほどの徹底的に考え抜かれた数式だからこそ、「あ、間違ってました…」というようなことなしに、どんなに熾烈な状況においても安心して使える数式になりうる。

そのように考えてみると、僕たちが普段つかっている言葉は、「あ、間違ってました…」というような失敗を招くことが多い。そのような間違いに気づいて、すぐにそれを認めることができれば、お互いの意思疎通もうまくいくのかもしれない。しかし、「自分が気づかなかった間違いだから、相手も気づいていないだろう」という思うような人ばかりではないにせよ、いちいち誤ちを認めるようなことはなかなか難しいようだ。


相手の言葉に向き合うこと

ところが…

数学者というのは、普段の会話でも、生真面目に相手の言葉に向き合おうとする。つまり、いちいち、「要するに、こういうことだよな」と自分に言い聞かせるように、自分の言葉で相手の言葉を置き換えようとする(まあ、ほとんどの場合、そういう数学者の執拗なまでに生真面目な態度に閉口してしまう人も多いだろうけど)。

もちろん、ここでいう数学者が、数学をやる人すべてに当てはまる訳ではないし、数学者であればこうだ、という訳でもない。

でも、

> いちいち、「要するに、こういうことだよな」と自分に言い聞かせるように、自分の言葉で相手の言葉を置き換えようとする…

ことは、数学者に限らず、すべての人が言葉を使う時に大切なことだ。

「もうわかってるでしょ」

と自分の理解を相手に分かっておいて欲しい気持ちが、ついつい前に出てしまうことがある。それはそれで分からない訳ではないのだけど、たいていの言葉は解釈の違いがおきやすいのだ。


数式という言葉

数学者たちは、誰かが書き綴った数式をみて、書き綴った本人でさえ気づかなかったことに気づいたり、一目見ただけで、その背景にある考え方まで理解してしまったりすることがあるらしい。

数学を勉強した人であれば、誰かが数式を書いているのを見て、「恐ろしい」と思うか、「あ、こんなことをやっているんだ」と思うか、いろいろだろう。数式という言葉に向きあって、その難解さに苦しんだ人も、要点をとらえて楽しさを感じた人も、数式の解釈には、状況に応じて異なるようなことがないことを知っている。だからこそ、そこに辿り着けないときに苦しみ、楽しみを知っていればこそ自分も答えをだしたいという欲求にかられる。

いずれの立場も、数式を書いた人と同じ答えを共有したいという出発点は同じはずだ。

僕たちが普段つかっている言葉は、数式のように、それを読む者を同じところに導いてくれているだろうか。

2013年4月10日水曜日

技術と時間


少しいつもと調子を変えて…

《技術》と《時間》をキーワードにしたメモを書き留めておきます。

まず、

 技術が一つの体系として閉じているかどうか?

ということについて。

「閉じている」というのは数学的な考え方ですが、「ある同じ性質のものだけで演算を行い、別の性質のものを持ち込まない」というものです。

例えば、

 整数と整数を足したら整数になる。
 小数点と小数点を足したら小数点になる。
 日本語と日本語で会話したら日本語になる。
 自分語と自分語で考えたら自分語になる。

こんな考え方です。

これは、トーマス・クーンが指摘したような共約不可能性のような考え方を裏付ける、技術の普遍性についての問題だと思います。数学者であれば、純粋性とでも表現するんじゃないでしょうか。


人工知能を使った推論

ひとつの技術体系において閉じている、ことは、人工知能を使った推論を行うときに、例外を加えるべきかどうか?の判断においてとても重要です。
物語のはじめでは、Aは生きている。そして、銃に弾が込められる。次にしばらく時間がたってから、Aは銃により撃たれる。その後、Aはまだ生きているだろうか?
通念でいえば、「銃で撃たれる」と「死ぬ(=生きていない)」のが自然な答えなのですが、例外を考慮に入れると、「生きている」という答えも導きだされます。これは、「イエール射撃問題」と呼ばれている問題です。

この問題では、「次にしばらく時間がたってから」の間に、「銃から弾丸を取り出していた…」などの仮説を含めて、新しい条件が追加されうるという例外が考慮されていることです。


小さな問題、とても短い時間

ヒューマン・センタード・デザインでは、ほとんどの場合、小さな問題をとても短い時間の出来事を前提にして利用者の操作態度(反応)を判定します。しかし、時たま、利用者が操作を止めてしまうような状況があります。たいていの場合、利用者が考えているのではなく、別の作業が割り込んでくることを想定します。例えば、ATMでの現金引き出しの操作過程では、想定外の時間を超過すると、最初から操作をやり直しするように促します。

もっとも、より洗練された人工知能を考える場合には、このような迷いが生じること自体が問題になります。人間の代わりに論理的な思考をすることを求められているのに、幅広く情報を参照し過ぎていたり、波及する別の問題を考え始めたりすることで、人工知能が人間よりも悩み始める訳です。


閉じていないこと

人間というのは、そもそも有視界的(見える見えないではなく空間的にという意味ですが…)にしか発想しません。そのため、視界の外にある概念を論理思考に加えようとすると、途端に思考が乱れます。運動選手が試合中に別のことを考えて調子を崩してしまうのも同じ理由ではないかと思います。

これらはすべて、技術体系が一つに閉じていないことが問題ではないかと思うのです。別の言い方をすれば、一つのタスクに対して、それをやり遂げるための情報や技術が足りていなかったり、別のタスクを考え始めていたりするために起きているんじゃないかと思います。

つまり、「閉じていない」のです。


技術と時間

勿論、新しい技術を取り込んではいけないというのではありません。問題は、それを取り込むタイミングやそれを咀嚼できるまでの《時間》との兼ね合いです。

この一点において、《技術》と《時間》はとても重要なかかわり合いをしていると思います。

僕は、ほとんど日替わりで、哲学と数学と言語学とコンピュータと色々な学問に接しています。できるだけ一つの体系のなかにまとめようとしているのですが、何かから何かへと作業内容を切り替える場合には、一度寝ないと頭が動きません。まあ、程度の問題もあるのですが、寝ることによって脳が動き始めるような気がします。

人間が素朴というか、純粋になればなるほど、《技術》と《時間》をうまく使い分けることが重要になると思います。


2013年3月19日火曜日

経験を人間から奪うべきかどうか!?

今回も、圏論について書きます。


知識・技術・経験という3つの要素

昔書いたブログなんですが、

> …情報とは漠然とし過ぎている。だから僕は、この情報を、知識・技術・経験という3つの要素に分けて考えてみることにした。

圏論にできるアプローチは、せいぜい知識・技術の範囲なんだな、と思ったことを書いておきます。そして、本当は、ここでいう技術も、身体感覚(入力)や身体動作(出力)を含んだりするような個人の個体差が前提になるとかなり怪しい筈だということを指摘しておきます。

うーん。なんだか、エラッソウな書き方ですね。まあ、とにかく、大事なことを書きおきます。


言語で説明できる範囲

つまり、西洋哲学の伝統そのままに、《言語で説明できる範囲》でしかないということなんです。

もちろん、この場合の言語とは僕たちが日常的に使う人間の話す言語である必要などなくて、図式や方程式などを含めて数学的表現を数学言語として置き換えることができることがとても重要になってきます。更に、計算機科学と繋げれば、つまり、コンピュータやその先にある特殊な計測機器と繋げれば、人間の知覚できないような計測値を含むようになるので、広大な世界、膨大なデータが扱えるようになります。

そうなんだけど、個人の個体差が前提になる経験は、数学的な言語ではどこまでも説明できないんだと思います。これは、凄く難しい概念なのですが、あえて言うと、説明しようとする間も無く、処理されてしまうようになるということなんですね。

まず、僕たちの個体差を含めて、身体のさまざまな特質を普遍的に定義できるようになる筈です。当然、そのような定義を行う人は、僕たちの固有な身体に基づく経験を数学的言語で説明しようとするでしょう。そして、その定義に基づいて設計された特殊な装置が僕たちの身体に埋め込まれるようになれば、僕たちは、僕たちが生まれもった能力を遥かに超えた感覚を自分自身の外に持つようになります。心拍数や脳波のような機械を通じて認識される生体情報は、なんとなくだけど、可視化されて自分自身でも確認できるからリアリティが伴っています。もちろん、この場合のリアリティってのは、なんだ!?って議論は今でもあるんだけど。


自分自身に当てはめる。

こうなると、次のような状況に、自分自身を置いた状況を想像します。

ボールが飛んでくる。
それを避ける(あるいは、気づくこともなく、ボールが当たる)。

飛んでくるボールを素早くかわすのに、いちいち考えるようなことを人間はしていません。これは、運動反射が瞬間的に行なっていることです。

ところが、特殊な装置が僕たちの身体に埋め込まれるようになれば、僕たちが意識する以前に装置が反応して、装置が僕たちの身体を制御するような状況が想定されることになります。

要するに、《言語で説明できる範囲》ということに立ち戻って言えば、この状況での説明は誰が誰に対して行なうのか!?ということになります。

ボールが飛んでくる。
機械が気づき、人間の運動反射が行なわれる時間よりも素早くボールに対応する…
人間は気づかないままの状態が続く。


全てが終わった後のこと

いずれにしても、このような未来映画のようなことが起こったとするならば、言語で説明がされたとしても、それは全てが終わった後のことになるのでしょうね。

このように考えると、身体感覚や、身体動作が、自分の意志の及ばない装置に繋がることは、ある意味で究極的な問題だといえます。つまり、このような問題を自分自身のみに起こる現実としてリアルに突き詰めてみると、早晩、「(このような)経験を人間から奪うべきかどうか!?」という議論になりかねません。

僕は、経験こそ、人間の潜在的な力を引き出してくれるものだと思っています。

なので、このような議論は、そこに至るまでの流れの中で議論されるべきであって、問題が起こってから議論するような状況になるとすれば、そもそもが間違ったことだと思います。勿論、論理的な考え方において分岐があるということは、その分岐の先には、それぞれの先端に向かって進もうとしていた考え方があったはずです。そのような考え方を理解しようとするには、僕たちは、論理や計算だけでなく、自分たちのリアリティに照らして考えることが欠かせません。そして、そのようなリアリティこそ、経験であると思うのです。

だからこそ、経験を人間から奪うような装置が生まれるかもしれない未来に向けて、議論が必要になって来ていると思います。それは、言語から得られるような知識を偏重するような社会では、尚更、重要です。

圏論、はじめました…


圏論、はじめました。

最近、圏論(Category Theory)という学問の勉強をはじめました。

まだまだおぼろげな理解なのですが、圏論というのは、数学者が哲学者のような思考を重ねた結果、生まれてきた学問のようです。もっとも、たいていの人には、哲学も、数学も、やたら小難しいことをいう人たちの学問、というメージがあると思います。そして、そこで話されることは、自分たちの日常生活とは、どこかかけ離れたものというイメージがあると思うのです。

大雑把に言えば、そのイメージは間違っていません。

以下は、僕の理解です。


哲学とは…

哲学者は、問題を見つけることは得意です。ですが、問題を見つけたあと、それをどのように解決するべきかを教えてくれません。もっとも、過去に見つかった様々な問題と絡めて話してくれたりするので、哲学の世界では、過去の問題との関係や、他の問題とどのような関係にあるのかが分かります。

しかし、哲学が生まれてから随分と長い時間が流れている為に、ひとつひとつの問題を理解する為に、昔からある問題を理解しないと、問題の見分けがつかなくなるという問題があることが問題なのです(苦笑)。


数学とは…

数学者は、問題に対する解を見つけるような道具を用意してくれます。たとえば、円周率を何桁も暗記している人が数学者なのかどうかは疑問を持つところですが、正確な解を見つける為に、試行錯誤をされていることは間違いないことです。

もっとも、数学をやっている人たちと話をしてみると、彼ら(彼女たち)は、学校で行われるテストの答案に書くべきような、ただひとつの解を求めるようなことには魅力を感じていないんですよね。だから、数学を好きな人たちの中には、哲学者のように問題を見つけようとする心があるように思うのです。


共通していること

哲学が生まれたあとに数学が生まれたことを考えれば、当然のことなのかもしれませんが、数学の中には哲学が棲んでいるようなところがあり、哲学の中にも数学が棲んでいるようなところがあると思うのです。そして、どちらの学問も誰かに説明しようとする為にあるんだと思います。

僕たちは、言葉を使って生活しています。言葉は、自分の行為や他人の行為を理由づけるときに役立ちます。だから、言葉でうまく説明できないときには、とんでもなく息苦しい状態に陥ります。言論などとか小難しくいうまえに、言葉が、そのような説明の為にあることをもっと再認識しておいた方がいいとよく思ったりします。

それは、説明されるときに思うことなのですが、一生懸命になって説明してくれている人を見ると、それだけでなんだか安心してくるような気持になったりするからです。もちろん、説明内容が大切なことに変わりはないのですが、途中から理解が追いつかなくなるようなことがあったりする訳です。そうなると、問題の説明よりも、そのような問題を理解しようと真摯に向き合う人たちがいて、僕たちの生活が成り立っている部分があるんだよなあ、と実感したりする訳です。


圏論とは…

圏論は、論理と計算をひとつにしたような学問だそうです。

圏論は、従来の数学のイメージを大きく塗り替えるような新しさを感じさせてくれます。もちろん、この場合の数学のイメージというのは、僕が、最近勉強を始めただけのことなので、ご注意ください。圏論そのものは、20世紀には既に始まっています。

哲学のような論理による証明と、計算機科学のような正確な計算に、数学的な視点が加わると考えれば良いのでしょうか?いろいろな事柄になんとかかんとか答えを見つけ出そうとしてくれる訳です。

だから、圏論は、新しい言葉のような役割をしてくれます。もっとも、僕たちが日常的に使っている言葉、日本語とか、英語とかとも全然違うし、コンピュータ言語のようなものとも異なって、数式や図式などを使って表現したりするので、抽象化された言語、メタ言語と呼ばれたりもするようです。


構成性と普遍性

先日、圏論の先生が、数学の中で用いられる「構成性と普遍性」という表現について説明してくれました。それは、以下のようなものです。

まず、好きな人を考えます。その人を誰かに説明しようとするとき、構成性とは、「(具体的に人物を指して)この人です」というような考え方であり、普遍性とは、「(好きな人のタイプを説明するのに)優しくて、かっこ良くて」というような考え方だそうです。

もっとも、このような構成性では、「この人」と言われても、あまりに具体的すぎて分からないし、同様に、このような普遍性では、抽象的すぎて分かりません。だから、より噛み砕いて説明する場合には、構成性の場合には、「普段は、頼りにならないけど。ここ一番というときには、頼りになる」というように構成的に、具体的な条件分けをして説明します。普遍性の場合には、「筋肉質で、足が長く、頭がいい」というように普遍的な条件を追加していきます。

どちらの場合も、条件を細かく出すのですが、どうやって条件付けを記述するかが、とても気になります。


圏論の言葉

圏論の場合、このような条件付けを圏論のやりかた、つまり、圏論の言葉で表現します。

ええ。

結局、ここがずっと問題なんですけどね。

率直にいえば、「…自分たちの日常生活とは、どこかかけ離れたものというイメージがある…」と、冒頭に書いただけに、個人的には、このような説明に立ち返ってしまうことには深い躊躇いがあったりします。確かに、異国の人たちと理解し合うには、その人たちの言葉を学びながらではないと難しかったりしますから、それを思えば、より多くの人たちにとって学びやすい言葉、理解しやすい言葉になるように、圏論が生まれ変わっていけることが理想的です。

しかし、そのような新しい学問、新しく生まれ変わっていく学問という可能性が、圏論にはあるように思っていることも事実です。そして、そこが、もっとも期待しているところでもあるのです。

2013年1月25日金曜日

1センチの1億分の1

1センチの1億分の1

物理学を勉強している人から量子力学の本を紹介してもらった。

「物理学は専門外なので、できるだけ取っ付きやすい本をお願いします」とお願いしたところ、その本の「はじめに」に、「ミクロ世界の非実在性と非局所相関」という言葉が出てきた。《非実在性》と《非局所相関》というのは、それぞれに量子力学のなかでとても重要なキーワードになっているようだが、当然のことながら、僕には、それぞれの言葉が物理学でどのように解釈されているのか、よくわからない。

そもそも、量子力学がまったく何かわからないから「読んでみよう」と思ったのだから、このような状況では、自分の知っている事柄にどこかで通じている(ように思われる)言葉に惹かれるものなのかもしれない。

量子力学の世界では、原子のようなとても小さな物質を扱う。たとえば、原子の大きさを表すには、オングストロームという単位を使うのだが、1センチの1億分の1という大きさらしい。小さいと表現するには、あまりにも小さい。だから、量子力学とは、原子のようなとても小さなものについて考える学問らしい。


非実在、非局所

量子力学が対象にしようとしている、僕たちの生活空間のなかにあるものとは比較しようのない対象こそ、《非実在》、《非局所》という概念の本質ではないかと思う。

つまり、自分の知っている事柄から遠くかけ離れているために、「これは、あれと似たようなものだな」といった、自分が持ち合わせている過去の知識、経験、あるいは、そこから得られるアナロジーのようなものが参考にならないのだ。もちろん、僕たちの生きている、この物質世界には、膨大な数の原子があって、物質はそうした原子からできているはずだ。とはいえ、そのような原子のひとつだけを取り出してみたり、触れてみることができはしないから、たいていの人は、専門書に書かれた内容をそのまま受け容れて、「そうなっているらしい」としか言いようがない。

たとえば、大きな岩が粉々になって小石のような大きさになり、小石が粉々になって砂のような大きさになり、砂が粉々になって、文字通り、粉のような大きさになったとしても、僕たちは、それらを見て、触れることができる。だからこそ、自分が目の前にしている対象が何かを具体的になにであるか想像できる。ところが、1センチの1億分の1という大きさのものが「そこにある」と断言されても、そのように断言する人でさえ、「それ」をはっきりと確認できていない。

《認知》という切り口から考えれば、このような対象は《非実在》である。つまり、「それはそこにない」のと同じである。対象はある(のかもしれない)のだが、具体的な存在として《認知》できない。


アナロジーの領域

たとえば、誰かが「広大な宇宙には、地球人のような知的生命体がいるはずだ」と表現したとしよう。宇宙空間での特定の位置を具体的に示すことができたとしても、大きな岩が砕けていくときと同じように、その空間を想像することは難しい。つまり、昔話に出てくるような「あるところ」という適当な場所がどのような状態であるか、経験的な知識で適当に補って想像できないのだ。

広大な宇宙空間のどこかではなくて、僕たちの《今ここ》にいる空間も、宇宙空間そのものはずだ。原子の大きさを単位として見えてくる空間についても同じことが言えるのだが、どちらの空間も、物理的には、僕たちの存在からとても近い距離にある。つまり、どちらの空間に対しても、《今ここ》=《局所》にいるはずだ。

にもかかわらず、こちら側とあちら側との間に、僕たちの経験的な知識が役立ちそうなアナロジーが見当たらない。つまり、アナロジーを持ち出すには、アナロジーが成り立ちそうな《アナロジーの領域》というものがあるはずなのだ。宇宙空間も、量子力学の空間も、物理的には《局所》と呼べるかもしれないが、精神的にはとても疎遠な距離にある。


精神的な距離感

僕たちは人間である。だから、たいていの人は大人になるとほぼ同じような背格好をしているし、同じような食生活を行い、同じような空間で生活している。だけど、おおよそ同じように見えても、それぞれの個人の好奇心を満たす対象は少しづつ異なっていて、社会全体を見渡したときには、ある人たちに共通する好奇心の向けられる対象が、それとは別の人たちの好奇心の対象になるとは限らない。そのことは、人間社会の多様な考え方を生み出している。

そして、このような視座に立って観察できることは、「ひとりひとりは、他の人と同じように見えるが、決して同じでない」ということである。アナロジーは、僕たちの知識を拡張するとき、とても役に立つ。今までの知識の延長に新しい知識を加えるとき、「似ている」というアナロジーがあることで、「だったら、こうかもしれない」というように、最初に知っていた知識が同じように役に立つかどうかを試すことができる。しかし、すべての知識を大きな情報構造として一度に理解することはできない。僕たちは、アナロジーを使ってひとつひとつ、既存の知識に新しい知識を追加するしかない。

要するに、僕たちは、精神的な距離感として身近な《局所(Locality)》を足がかりにして、新しい世界を知ろうとしている。


非局所性

《非局所性》というのは、量子力学では、まだまだ議論の決着をみていない概念らしい。ウィキペディアに、《非局所性》のエントリーがある。
非局所性(Nonlocality)とは、この宇宙における現象が、離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと。
僕たちの生活空間で得た知識や経験が、この宇宙全体の中で、どれほど役に立つのか分からない。 それでも、誤解を恐れずに言えば、物理学者たちの目には、《アナロジーの領域》がとても広大な空間に映っているように見えるようだ。

顕微鏡が発明されて、これまで見えていなかった世界の様子を肉眼で捉えられるようになると、その世界で起きていることを毎日のように観察し始めた専門家の《アナロジーの領域》が拡大していったことは疑いようがないだろう。しかし、この観察によって得られた知識は、ひとりひとりの専門家に見えている(た)世界にすぎない。だから、それを自分以外の誰かに伝えようとするときには、アナロジーとして、こちら側にある何かを用意しなくてはならない。つまり、自分と同じように、相手も知っている概念としてアナロジーを用いることになる。

量子力学では、ある程度の大きな空間から小さな対象を観察している。このとき、その観察対象が、これまでにはなかったような小さなものであることが前提になっている。もし、その小さな対象よりも、もっと小さな対象が、その小さな対象の内側に見つかったとしよう。量子力学の研究者の《アナロジーの領域》はそうやって拡大することになるだろう。そして、彼らは、新しく見つかったより小さな対象を観察することで、これまで小さな対象だと思っていた対象についても巧く説明できるようになる(かもしれない)。


局所の中の局所

ウィキペディアに、《局所性》のエントリーがある。
局所性とは、物理学において、「ある地点で行われた行為や起こった現象によって、遠くの実験結果が直ちに変わることは無い」という性質。
「遠く」とは、ある程度の《物理的な距離感》のことを表している。このような表現から僕たちが《物理的な距離感》として「遠く」を意識できる背景には、その《物理的な距離》としての「遠さ」を意識できるような《精神的な距離感》が下敷きになっている。つまり、僕たちは、本質的には人それぞれに異なる知識や経験を横断するような、《アナロジーの領域》を持つことをお互いの理解のよりどころにしている。

ところが、量子力学において《局所》であると宣言しておきながら、最初に《局所》と宣言した空間より、より《局所》な空間を見いだそうとしている。その結果、それは《局所の中の局所》というような世界を切り開くことになる。そのとき切り開かれる世界は、「1センチの1億分の1」の何分の一、何百分の一、何千分の一、あるいは、それ以上により小さな《局所》だ。

新しい《局所》が発見されるたび、それまでの《精神的な距離感》が当てはまらない、新たなパラドックスに、発見者は遭遇することになる。それは、その発見が行われるまでの《局所》について詳しく知るために必要なことなのだが、同時に、新しい《局所》において、自分たちの意識の下敷きになっていた《精神的な距離感》を見失わせるだろう。


新しい知域を拡げてくれるもの

量子力学でいうところの《非実在性》や《非局所性》から何を学ぶことができるか、はやってみなくては分からない。それでも、このような知識が切り口となって、僕らにとっての、新しい知域を拡げてくれるものになることは間違いないだろう。量子力学というのは、物理的には、とても近くにあることをテーマにした学問なんだけど、精神的には、まったく近くにない学問らしい。

新しいことを知ってしまったからこそ、知らないことが見つかる。個人的には、そういうところが、とても興味深い。