2013年1月25日金曜日

1センチの1億分の1

1センチの1億分の1

物理学を勉強している人から量子力学の本を紹介してもらった。

「物理学は専門外なので、できるだけ取っ付きやすい本をお願いします」とお願いしたところ、その本の「はじめに」に、「ミクロ世界の非実在性と非局所相関」という言葉が出てきた。《非実在性》と《非局所相関》というのは、それぞれに量子力学のなかでとても重要なキーワードになっているようだが、当然のことながら、僕には、それぞれの言葉が物理学でどのように解釈されているのか、よくわからない。

そもそも、量子力学がまったく何かわからないから「読んでみよう」と思ったのだから、このような状況では、自分の知っている事柄にどこかで通じている(ように思われる)言葉に惹かれるものなのかもしれない。

量子力学の世界では、原子のようなとても小さな物質を扱う。たとえば、原子の大きさを表すには、オングストロームという単位を使うのだが、1センチの1億分の1という大きさらしい。小さいと表現するには、あまりにも小さい。だから、量子力学とは、原子のようなとても小さなものについて考える学問らしい。


非実在、非局所

量子力学が対象にしようとしている、僕たちの生活空間のなかにあるものとは比較しようのない対象こそ、《非実在》、《非局所》という概念の本質ではないかと思う。

つまり、自分の知っている事柄から遠くかけ離れているために、「これは、あれと似たようなものだな」といった、自分が持ち合わせている過去の知識、経験、あるいは、そこから得られるアナロジーのようなものが参考にならないのだ。もちろん、僕たちの生きている、この物質世界には、膨大な数の原子があって、物質はそうした原子からできているはずだ。とはいえ、そのような原子のひとつだけを取り出してみたり、触れてみることができはしないから、たいていの人は、専門書に書かれた内容をそのまま受け容れて、「そうなっているらしい」としか言いようがない。

たとえば、大きな岩が粉々になって小石のような大きさになり、小石が粉々になって砂のような大きさになり、砂が粉々になって、文字通り、粉のような大きさになったとしても、僕たちは、それらを見て、触れることができる。だからこそ、自分が目の前にしている対象が何かを具体的になにであるか想像できる。ところが、1センチの1億分の1という大きさのものが「そこにある」と断言されても、そのように断言する人でさえ、「それ」をはっきりと確認できていない。

《認知》という切り口から考えれば、このような対象は《非実在》である。つまり、「それはそこにない」のと同じである。対象はある(のかもしれない)のだが、具体的な存在として《認知》できない。


アナロジーの領域

たとえば、誰かが「広大な宇宙には、地球人のような知的生命体がいるはずだ」と表現したとしよう。宇宙空間での特定の位置を具体的に示すことができたとしても、大きな岩が砕けていくときと同じように、その空間を想像することは難しい。つまり、昔話に出てくるような「あるところ」という適当な場所がどのような状態であるか、経験的な知識で適当に補って想像できないのだ。

広大な宇宙空間のどこかではなくて、僕たちの《今ここ》にいる空間も、宇宙空間そのものはずだ。原子の大きさを単位として見えてくる空間についても同じことが言えるのだが、どちらの空間も、物理的には、僕たちの存在からとても近い距離にある。つまり、どちらの空間に対しても、《今ここ》=《局所》にいるはずだ。

にもかかわらず、こちら側とあちら側との間に、僕たちの経験的な知識が役立ちそうなアナロジーが見当たらない。つまり、アナロジーを持ち出すには、アナロジーが成り立ちそうな《アナロジーの領域》というものがあるはずなのだ。宇宙空間も、量子力学の空間も、物理的には《局所》と呼べるかもしれないが、精神的にはとても疎遠な距離にある。


精神的な距離感

僕たちは人間である。だから、たいていの人は大人になるとほぼ同じような背格好をしているし、同じような食生活を行い、同じような空間で生活している。だけど、おおよそ同じように見えても、それぞれの個人の好奇心を満たす対象は少しづつ異なっていて、社会全体を見渡したときには、ある人たちに共通する好奇心の向けられる対象が、それとは別の人たちの好奇心の対象になるとは限らない。そのことは、人間社会の多様な考え方を生み出している。

そして、このような視座に立って観察できることは、「ひとりひとりは、他の人と同じように見えるが、決して同じでない」ということである。アナロジーは、僕たちの知識を拡張するとき、とても役に立つ。今までの知識の延長に新しい知識を加えるとき、「似ている」というアナロジーがあることで、「だったら、こうかもしれない」というように、最初に知っていた知識が同じように役に立つかどうかを試すことができる。しかし、すべての知識を大きな情報構造として一度に理解することはできない。僕たちは、アナロジーを使ってひとつひとつ、既存の知識に新しい知識を追加するしかない。

要するに、僕たちは、精神的な距離感として身近な《局所(Locality)》を足がかりにして、新しい世界を知ろうとしている。


非局所性

《非局所性》というのは、量子力学では、まだまだ議論の決着をみていない概念らしい。ウィキペディアに、《非局所性》のエントリーがある。
非局所性(Nonlocality)とは、この宇宙における現象が、離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと。
僕たちの生活空間で得た知識や経験が、この宇宙全体の中で、どれほど役に立つのか分からない。 それでも、誤解を恐れずに言えば、物理学者たちの目には、《アナロジーの領域》がとても広大な空間に映っているように見えるようだ。

顕微鏡が発明されて、これまで見えていなかった世界の様子を肉眼で捉えられるようになると、その世界で起きていることを毎日のように観察し始めた専門家の《アナロジーの領域》が拡大していったことは疑いようがないだろう。しかし、この観察によって得られた知識は、ひとりひとりの専門家に見えている(た)世界にすぎない。だから、それを自分以外の誰かに伝えようとするときには、アナロジーとして、こちら側にある何かを用意しなくてはならない。つまり、自分と同じように、相手も知っている概念としてアナロジーを用いることになる。

量子力学では、ある程度の大きな空間から小さな対象を観察している。このとき、その観察対象が、これまでにはなかったような小さなものであることが前提になっている。もし、その小さな対象よりも、もっと小さな対象が、その小さな対象の内側に見つかったとしよう。量子力学の研究者の《アナロジーの領域》はそうやって拡大することになるだろう。そして、彼らは、新しく見つかったより小さな対象を観察することで、これまで小さな対象だと思っていた対象についても巧く説明できるようになる(かもしれない)。


局所の中の局所

ウィキペディアに、《局所性》のエントリーがある。
局所性とは、物理学において、「ある地点で行われた行為や起こった現象によって、遠くの実験結果が直ちに変わることは無い」という性質。
「遠く」とは、ある程度の《物理的な距離感》のことを表している。このような表現から僕たちが《物理的な距離感》として「遠く」を意識できる背景には、その《物理的な距離》としての「遠さ」を意識できるような《精神的な距離感》が下敷きになっている。つまり、僕たちは、本質的には人それぞれに異なる知識や経験を横断するような、《アナロジーの領域》を持つことをお互いの理解のよりどころにしている。

ところが、量子力学において《局所》であると宣言しておきながら、最初に《局所》と宣言した空間より、より《局所》な空間を見いだそうとしている。その結果、それは《局所の中の局所》というような世界を切り開くことになる。そのとき切り開かれる世界は、「1センチの1億分の1」の何分の一、何百分の一、何千分の一、あるいは、それ以上により小さな《局所》だ。

新しい《局所》が発見されるたび、それまでの《精神的な距離感》が当てはまらない、新たなパラドックスに、発見者は遭遇することになる。それは、その発見が行われるまでの《局所》について詳しく知るために必要なことなのだが、同時に、新しい《局所》において、自分たちの意識の下敷きになっていた《精神的な距離感》を見失わせるだろう。


新しい知域を拡げてくれるもの

量子力学でいうところの《非実在性》や《非局所性》から何を学ぶことができるか、はやってみなくては分からない。それでも、このような知識が切り口となって、僕らにとっての、新しい知域を拡げてくれるものになることは間違いないだろう。量子力学というのは、物理的には、とても近くにあることをテーマにした学問なんだけど、精神的には、まったく近くにない学問らしい。

新しいことを知ってしまったからこそ、知らないことが見つかる。個人的には、そういうところが、とても興味深い。