2013年4月10日水曜日

技術と時間


少しいつもと調子を変えて…

《技術》と《時間》をキーワードにしたメモを書き留めておきます。

まず、

 技術が一つの体系として閉じているかどうか?

ということについて。

「閉じている」というのは数学的な考え方ですが、「ある同じ性質のものだけで演算を行い、別の性質のものを持ち込まない」というものです。

例えば、

 整数と整数を足したら整数になる。
 小数点と小数点を足したら小数点になる。
 日本語と日本語で会話したら日本語になる。
 自分語と自分語で考えたら自分語になる。

こんな考え方です。

これは、トーマス・クーンが指摘したような共約不可能性のような考え方を裏付ける、技術の普遍性についての問題だと思います。数学者であれば、純粋性とでも表現するんじゃないでしょうか。


人工知能を使った推論

ひとつの技術体系において閉じている、ことは、人工知能を使った推論を行うときに、例外を加えるべきかどうか?の判断においてとても重要です。
物語のはじめでは、Aは生きている。そして、銃に弾が込められる。次にしばらく時間がたってから、Aは銃により撃たれる。その後、Aはまだ生きているだろうか?
通念でいえば、「銃で撃たれる」と「死ぬ(=生きていない)」のが自然な答えなのですが、例外を考慮に入れると、「生きている」という答えも導きだされます。これは、「イエール射撃問題」と呼ばれている問題です。

この問題では、「次にしばらく時間がたってから」の間に、「銃から弾丸を取り出していた…」などの仮説を含めて、新しい条件が追加されうるという例外が考慮されていることです。


小さな問題、とても短い時間

ヒューマン・センタード・デザインでは、ほとんどの場合、小さな問題をとても短い時間の出来事を前提にして利用者の操作態度(反応)を判定します。しかし、時たま、利用者が操作を止めてしまうような状況があります。たいていの場合、利用者が考えているのではなく、別の作業が割り込んでくることを想定します。例えば、ATMでの現金引き出しの操作過程では、想定外の時間を超過すると、最初から操作をやり直しするように促します。

もっとも、より洗練された人工知能を考える場合には、このような迷いが生じること自体が問題になります。人間の代わりに論理的な思考をすることを求められているのに、幅広く情報を参照し過ぎていたり、波及する別の問題を考え始めたりすることで、人工知能が人間よりも悩み始める訳です。


閉じていないこと

人間というのは、そもそも有視界的(見える見えないではなく空間的にという意味ですが…)にしか発想しません。そのため、視界の外にある概念を論理思考に加えようとすると、途端に思考が乱れます。運動選手が試合中に別のことを考えて調子を崩してしまうのも同じ理由ではないかと思います。

これらはすべて、技術体系が一つに閉じていないことが問題ではないかと思うのです。別の言い方をすれば、一つのタスクに対して、それをやり遂げるための情報や技術が足りていなかったり、別のタスクを考え始めていたりするために起きているんじゃないかと思います。

つまり、「閉じていない」のです。


技術と時間

勿論、新しい技術を取り込んではいけないというのではありません。問題は、それを取り込むタイミングやそれを咀嚼できるまでの《時間》との兼ね合いです。

この一点において、《技術》と《時間》はとても重要なかかわり合いをしていると思います。

僕は、ほとんど日替わりで、哲学と数学と言語学とコンピュータと色々な学問に接しています。できるだけ一つの体系のなかにまとめようとしているのですが、何かから何かへと作業内容を切り替える場合には、一度寝ないと頭が動きません。まあ、程度の問題もあるのですが、寝ることによって脳が動き始めるような気がします。

人間が素朴というか、純粋になればなるほど、《技術》と《時間》をうまく使い分けることが重要になると思います。