2011年8月8日月曜日

ダイモンのごときもの

ツイッター上で知り合った方から、ハンナ・アーレントの「人間の条件」を紹介してもらって、読んでいると、次のような記述があった。
…ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p292
ん?このダイモンというのは、映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」に登場する小動物(ダイモン)にそっくりだ。主人公ライラは、いつもダイモン(パンタライモンと呼ばれている)にぴったりと寄り添っていて、さまざまなアクシデントが起こる度に、パンタライモンはライラの相談役となって、状況を打開する大切な役割を果たす。

個人的に、とても気に入っていた映画であり、最初から長編三部作として公開されたのだが、2009年12月、制作会社から続編の制作について断念することが発表された。
北米カトリック連盟が「子供に対し無神論を奨励する映画だ」などとしてボイコット運動を展開したことからアメリカにおける興行収入が振るわなかったことが理由であるとされ、原作者であるフィリップ・プルマンが遺憾の意を述べる事態となっている。
僕が気になるのは、ボイコット運動の理由である「子供に対し無神論を奨励する映画だ」という点。見えるはずの無いダイモンが、映画の中では視覚化され、ライラと会話までしている。こういった演出が気に入らなかったのだろうか?世界的な金融危機の影響も指摘されているのだが、とても残念な結果になってしまった。

ちなみに、アーレントは、冒頭に引用した部分を含む段落として、以下のような文章を書いている。
人びとは、活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうした人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的なアイデンティティの方は、別にその人の活動学がなくても、肉体のユニークな形と声の中に現われる。その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p291-292
例えば、主人公ライラのデーモンには、パンタライモンという名前まである。僕の指摘が間違っていなければ、ギリシャ宗教のなかでは本来見えないはずの存在であるにも関わらず可視化されている。しかし、その場合それは、アーレントがいう「正体」にほかならない。つまり、西洋社会の伝統的な価値観を培ってきたのは、間違いなく、宗教の役割ではなかったか、と思う。となると、この視覚化された「正体」が、宗教に代わってアドバイスを与える存在になる可能性があるとすれば、これは大問題となるのだろう。

つまり、この映画の存在によって、2つの事実が暴露される。

ひとつは、パンタライモンであるダイモンとは、西洋社会の伝統的な価値観を守ってきた宗教の役割そのものであることを暴露する。もうひとつは、宗教は、信者が意識しているかしていないかに関わらず、宗教活動に巻き込んできたことを暴露する。

このように考えてみると、この映画の表現は暗示的ではあるものの、長い間宗教的な価値観が個人の活動を巧みに操っていたと批難しているようにみえる。然し、僕自身は、それは、宗教のみならず、さまざまな価値観が、個人の背後から突き動かすように行動を促していたと考える方が適切だと思う。そして、これまで、そうした暗黙のうちに価値観を刷り込まれていたかもしれないのに、自分は常に主体的な行動をしていたと思っている現代人へ、気づきを与える作品ではなかったか、と思う。

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