2012年1月13日金曜日

知域におけるリアリティ


自分の興味関心を伝えること。

自分の興味関心を誰かに伝えたい。とはいえ、現実空間においても言葉を投げかけただけでは、誰も自分の求めに無条件で応じようとはしてくれない。実際、通りすがりの人をつかまえるようにして、誰かに自分の興味関心を伝えようとしてみても、自分が期待するような結果を誰からも得られないだろう。むしろ、自分の期待にそうような結果は、はなからありえないと思った方がいい。

かりに、自分の興味関心と同じような興味関心を持った人がいたとしても、そのような唐突的な行為を行なう人としての行動には不審を抱かれるにちがいない。すくなくとも現実空間では、そういったことがリアルな問題となりうる。なぜなら、迂闊に同意しようものならば、その先に、どれほどしつこくつきまとわれるかがわからない不安があるからである。


「蓋然性の他者」と「必然性の他者」。

サイバー空間では、現実空間のような物理的な接触がおこらない。だから、君が、自分の興味関心に関連するメッセージを発信すると、それを偶然見かけた人が現われ、メッセージに返信してくれるようなことだって、十分に起こりえる。

僕は、サイバー空間におけるこのような他者の存在を「蓋然性の他者」と呼んでいる。偶然、君のメッセージの内容に興味関心を示した「蓋然性の他者」は、君のメッセージに込められた内容をどれほど適切に理解しているかは定かではない。然し、君のメッセージに対して注意を払ってくれる。なぜなら、君は、この「蓋然性の他者」にとっての「蓋然性の他者」でもあるからだ。

つまり、サイバー空間では、このような「蓋然性の他者」が溢れている。もし、現実空間において面識があるような他者がサイバー空間に現われたとしたら、それは「必然性の他者」ということになる。このような他者の存在をよく理解しておくことはとても大切だ。


「蓋然性の他者」のリアリティ。

しかし、サイバー空間においては、誰かについてよく知ろうとしても、得られる情報というのはとても限定的なものだろう。本当によく知りたいと思うのであれば、現実空間において会うのが何よりも近道だ。たしかに、君の「出会った人=誰」が、ブログやツイッター、フェースブックといった情報発信をしていれば、その「誰」についてわかったような気分になるかもしれない。しかし、それは、今、こうやってブログを呼んでいる君が、僕の考えていることを読んでいるからと言って、僕のことを知らないことであるし、なによりも、僕が君を知らない以上、君は、想像上の僕を相手に知ったつもりになっていることにほかならない。つまり、僕は、君に向かって言葉を書いているのではなく、君のような「蓋然性の他者」に向かって、ブログやツイッターのような情報発信をしているのだ。

そのような立場から見ると、僕もまた、君にとっての「蓋然性の他者」でしかないのだ。


ひとつの言葉。異なる意味。

「蓋然性の他者」である僕が、君に伝えることはなんだろうか?あるいは、逆に、君が僕に伝えることができることはなんだろうか?

例えば、今からふたりでチャット・サービスを利用してリアルタイムに会話を始めたとしよう。君が書き込んだメッセージは、君自身の経験に基づく誠意ある内容だろう。僕も、同じように、僕自身の経験にもとづく誠意ある内容として会話を続けるだろう。しかし、ふたりの会話は、同じ時間、同じ場所、同じ対象を見ながら会話しているのではない。それは、ひとつの言葉が、時代や知域を超えて、異なる意味があることと同じ状態にある。そう。つまり、偶然、同じ言葉を使っていることから、自分が感じている言葉のイメージとよく似たイメージとして表現されているだけのことなのだ。

言うまでもなく、会話をするからには、会話を通して共有したい感覚というものがある。それは、ブログを書きながら理解して欲しいと思うことがあるように、会話をすることは、何かを相手に伝え、同様に、何かを相手から受け取る。しかし、遠く離れた異国の人と人が出会って会話を始める時には、お互いの身振りや表情といったものが意思疎通の手がかりになるように、サイバー空間で出会う「蓋然性の他者」たちは、偶然、似たような言葉を話しているもの同士であることをしっかりと認識しておく必要がある。


アマチュア無線の会話

アマチュア無線という趣味がある。電波を飛ばすことができる無線機ではおしゃべりを楽しんだりすることができる。もちろん、電波は限られた資源なので、国家試験を受けて資格を取得することで、固有の周波数の使用許可を得ることができる。より上級の資格を取得すれば、ラジオやテレビの開設だって可能になる。もっとも、一般的なアマチュア無線の愛好家が使う無線機は、電波出力がラジオやテレビほどに大きくない。しかし、気象状態などが良ければ随分と遠方の人とも会話を楽しむことができるのだ。日本国内の愛好家だけでなく、海外の愛好家とも繋がることができる。

偶然、合わせた周波数で話しかけてくる人は、誰とも想像がつかない人だ。勿論、長い時間をかけて話をしていくうちにお互いの興味関心について知りえることができるかもしれないが、彼らにとっては、不安定な気象条件の中で、どのようにクリアな会話を楽しむことができたかが重要なポイントになる。そして、その良好な会話を証明するために、「ベリーカード」という自分が使用している周波数を書いたカードを双方に送りあう。

サイバー空間上での会話では、このような「ベリーカード(Verification Card)」のようなものを残すことはないが、会話をした人同士の心のうちには、「こんな内容の会話をした」という程度の記憶は残るだろうし、より感情を込めて話をした後では「いい人だった」という印象も残るだろう。しかし、このカードがある本来の理由は、「お互いの存在があることを確認した」という意味なのである。


符牒による会話。

軍隊などが無線通信を行なう場合、電波に乗せて送る内容が暗号化されていることが多い。その上で、重要な命令などは、あらかじめ符牒のような当事者しか知りえない隠語であったり、作戦コードのようなものが使われる。このような業務上のやりとりで符牒のようなものを使うのは、知る必要のない人間に情報を伝えることを防ぐという目的と、間違ったメッセージの伝達を防ぐという目的がある。そして、このようなやり取りの発端と末端にいる人たちは、「必然性の他者」として繋がった関係にある。

逆説的な言い方をすれば、その符牒の内容を知ってさえすれば、その会話が何を目的として行なわれているかを知ることもできる。

寿司屋などで常連客が、「アガリ、ムラサキ、ナミダ、キヅ」などという、一般客からすれば聞き慣れない言葉を使ったりするのも、職人同士の会話で使われる符牒を聞き覚えした上でのことだろう。もっとも、地方の格式の高い寿司屋に行って、あまり聞き慣れないその地方だけでしか獲れないような出世魚の名前で「いかがですか?」と言われて、迂闊に注文すると、バカ高い時価で支払わされることになったりする。

「必然性の他者」である為には、聞き慣れない言葉は、正しくその素性を確かめることが肝心だと思う。


ひとつの言葉。ひとつの意味。

僕たちが抱く興味関心というものは、多くの場合、多様で深淵である。つまり、なかなか言葉で表現することは難しい。たとえば、サッカーが好きだという人も、少年サッカーのような話ではなく、日本の国内リーグにも興味がなく、ポルトガルのバルセロナというチームとそのチームの活動に関連することに興味があるというような具合になることが往々にしてある。その上で、そのチームそのものをガイドブックに書いてあるような情報から得た知識で表現したとしよう。たいていの場合、そのような通り一遍の知識は、こうした興味関心を抱く人にとっては当然のことであって、どのように好きなのかを的確に言い表せないとわかっていないと同じだいう人もいる。

興味関心というのは、大好きなブランドのワンピースであったり、発売されたばかりのキャラクター製品であったり、さまざまなものに向かっていたりするのだ。地球上の70億人が、そうした興味関心をいくつづつ持っているかを考えてみると、自分の興味関心を誰かと共有することの難しさがとても壮大な目標だと思えてくるはずだ。

だからこそ、「知域」が重要だと思う。
人Aの知に対するリアリティ ∩ 人Bの知に対するリアリティ 

このような立場からすると、僕のブログにも、コメントをくれると嬉しい。

0 件のコメント:

コメントを投稿