2011年12月31日土曜日

第三の目

今年も大晦日になりました。

今年は、今まで以上に「第三の目」の大切さを気づかされることになりました。この「第三の目」について説明させてください。

人間には二つの目がついています。僕たちは、右の目と左の目から見えるわずかな違いを使って、僕たちが向き合っている世界を立体的に見ています。たかだか10cmほどの違いなのですが、おかげで、みかんの房についた白いスジを上手に剥くこともできるし、人混みのなかで、誰が一番自分に近いかを素早く判断して避けて歩くことができます。どちらの目が第一か、第二かは、右脳や左脳のような、より活発な目というのがあり、人それぞれに異なります。

そして、「第三の目」というものがあります。勿論、「第三の目」というのがある人は、普通いません。もし、ある人がいれば、是非教えてください。しかし、そのような「第三の目」を心の目という人がいます。

よく言われるのは、「(プレゼンテーションなど)誰かに話をする時に、自分自身が話していることを客観的に見れる目線を持ちなさい」という意味を指しているものです。

日本人は、この「第三の目」がとてもよく機能しているように思います。所謂、「気づかい」というのは、まさに「第三の目」がなせるスーパーセンス(超感覚)だと思います。自分の視界に入っている人を気づかうという意識は、本当に大切にしたいものです。もっとも、この「気づかい」が、単に、自分以外の人に、自分がどのように映っているんだろう?という「主観的に観る」ことになっている場合には、「客観的に見れる」こととは異なります。

今年ほど、さまざまな映像を見ていて、「このように(主観的に)観ています」という強い印象の映像が繰り返し流れた年はなかったと思います。映像は、撮影者がレンズ(単眼)を通して、意図して切り取られたモノです。つまり、「主観的に観る」ことになっていて、「客観的に見れる」こととは異なります。だから、このような映像を見続けると、なぜそんなものに凝視しなくてはいけないの?と生理的に嫌悪することがあったとしても、それは、自分が望まないモノを見せる手段(メディア)の特性の為に、逃れようがないのです。

終戦後、7年を経て1952年に発表された、小説『二十四の瞳』は、戦争というものを十二人の子供たちの目を通して見えるように描いています。

1984年、郷ひろみというアイドル歌手がうたった『2億4千万の瞳』は、歌詞を読むと、「この星の片隅の2億の瞳が素敵な事件を探してるのさ」となっています。あたかも、その素敵な事件の中心に自分がいて、自分に向けられている瞳が2億4千万個あるという意味に思えます。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36026

『二十四の瞳』の瞳が向いている視線の先を気にしていた「おなご先生」は、「第三の目」よりももっと多くの目線を意識していたことになります。一方、郷ひろみは、『2億4千万の瞳』が自分に向けられているように意識していたのかもしれません。

僕は、「評価」という言葉を何度も考え直すことで、この「第三の目」に辿り着いています。それは、「おなご先生」が注意を払い、意識し続けた子供たちの目線に対する「評価」であり、「郷ひろみ」が唄ったような自分に注意が向けられ、自分に与えられる「評価」とは随分と違う。

誰の目線がどこへ向けられているのか?

「第三の目」を考えていると、どうも、僕たちが求めている答えのヒントがあるのかもしれない。そのように思ったりするのです。

皆さんが良い年を迎えられることを祈っています。(●`エ´)ノ


2011年12月21日水曜日

フランスの家族構成別世帯

フランスの家族構成別世帯を見ていると、とても興味深い傾向がある。

単身世帯

フランスの単身者は、全体の33.3%にも及ぶ。つまり、フランス人の3世帯に1世帯は、単身世帯であるということだ。フランス人の成人年齢は18歳なのだが、データからは、18歳を過ぎると単身者として生活を始める傾向が強くなることが読み取れる。また、その場合、男性よりも女性の方が多く、フランスでは、5世帯に1世帯が女性の一人暮らし、または、子供との生活を営んでいるように思われる。


ひとり親世帯

フランスでは、少子化対策が成功しており、2006年には2.005人の出生率になっているので、子供が減っている訳ではないが、子育ての保護政策があることもあり、ひとり親世帯が増えてきている。理屈だけでいえば、出生率が2人を超えれば、国家としての人口減少は歯止めがかかる。つまり、子供を産むには男女2人の親がいるので、2人の子供がいれば、その親が死んでも社会に存在する人口は変わらないはずである。ただし、出産時期が高齢化したり、平均寿命が伸びたりすることで、人口の代謝速度が変化しないものとする。


核家族化を超えて、個人化が進む世帯

このデータが顕著に表わしているのは、フランスでは、女性を中心に個人化が進んでいるということ。たとえば、世帯あたりの人数が増えれば、その世帯が食事や行楽に出掛ける場合、一緒に行動するはずである。しかし、そのように一緒に行動を共にする単位は、世帯ではなく、友人などのグループになってきていると考えられる。

より具体的な実態を把握するには、行動手段がどのように変化してきているのか、一人一人の生活時間がどのように使われているのか、などを調べていく必要があるだろう。

実際、フランスでは、車の保有率が低下してきていることがあげられている。都市交通手段の発達がもっとも大きな影響を与えていると思われるが、同じ距離を大勢で移動することに比べると、個人の移動に車を使うことは割高になってしまう。フランスでも、少人数向けのコンパクト車が需要を伸ばしてきていることからも、そのような個人単位での移動が増えてきているのではないだろうか。


個人化が進む日本の世帯構成

日本でもフランスでの状態と同じような傾向があるように思われる。但し、日本の統計資料では、男女間の差を伺うことはできないので、その辺りは、僕たちが周囲の友人などから体感的に感じることで補完して想像するしかないだろう。


http://www.garbagenews.com/img11/gn-20111219-10.gif


機械領域

機械領域

インターネットのようなサイバー空間を通じて、たくさんの人々がコミュニケーションを行なうようになってきたことで、そのような人々が手紙や電話のように気軽にコミュニケーションを楽しむような空間ができてきている。こうした空間は、サイバー空間の特殊な利用方法でしかないのだけれども、これ以前のサイバー空間がアプリケーション・サービスと呼ばれるような特定の目的を持って設計されたものであったことに対して、コミュニケーションそのものを目的とした空間として機能し始めている。

つまり、これまでの現実空間において、公的領域と私的領域と呼ばれる領域のほかに、サイバー空間の中には、こうした特殊なコミュニケーション空間が存在するようになってきているのだ。しかし、サイバー空間そのものは、一部の人々たちによって管理、制御されている機械でしかない。そのため、僕は、この特殊なコミュニケーション空間は、機械領域として、公的領域とも、私的領域とも区別して考えるべき領域だと思っている。まだ、多くの人たちは気がついていないのかもしれないけど、起動ボタンを押せば、人間には敵わないような驚異的な力で世界の隅々までひとつの色に染めあげてしまうような機械領域である。

この機械領域の部品的な要素には、職業的な人間が含まれることがある。こうした人たちは、自分の意図ではなく、職業的な役割から、多くの他者に向かってメッセージを投げかけてくる。彼らは、コミュニケーションを通じて、自分たちのサービスを広く普及させるという役割をになっている。ときどき、彼らの心(内的価値観)が、美意識や倫理的な側面から、そのような意図を持ったメッセージの投げかけに疑問や躊躇を挟む事もあるが、職業によって金銭を得るという必然性から、そのような思考に留まることを回避させてしまう。少なくとも、このような職業的な人間にとって、サービスを利用するすべての人が必然性の他者であることはかわらないので、機械領域の中で部品のような役割を演じている事を知りつつも、この人たちは、メッセージを発信する作業を続けている。

どれだけの人が、機械領域という空間を意識できているのか定かではないが、現実空間に存在する公的領域と私的領域とは、異なった空間であることは間違いない。そして、もっとも強烈な問題が起こるのは、アクセス禁止というような機械領域から排除することが、別の職業的な人間の躊躇のない操作で実行可能であるということ。

機械領域は、ほかのシステムと同様に、一度サービスが開始されると停止することはありえないと思ったほうがよい。彼らを停止に追い込むことができるのは、経済的な原理だけだ。つまり、サービスを利用している人たちが利用することを止めれば、それだけで停止に向かって進むことができる。僕らのマインドセットは、起動ボタンを押すことはできないが、機械領域におけるさまざまなサービスの停止ボタンになることができる。


大人と小人

(以下にあげた定義は、一般的な大人と小人のような基準から読むと多くの誤解を招くかもしれない。それでも、ひとつの方向性を示す為に、このような境界を提示しておく。)


大人

大人とは、フェリックス・ガタリに言うような、
愚かな小児的コンセンサスを追求するのではなく、これから大切なことは、相違を掘り起こし実在の特異的生産をはぐくむ
ことができるような人を指している。


小人

これに対して、小人とは、蓋然性の他者も必然性の他者も区別がつかない状態にある。

なごみと気づかい

なごみ

気心の知れた仲間のような存在でも、どこか刺々しく応対してしまうようなときがある。そういう時に、必然性の他者は、僕のことを本当によく知っていて、たわいのないようなことから僕をなごませてくれる。


気づかい

蓋然性の他者は、必然性の他者と異なって、僕のことを本当によく知らない。無神経だと思うようなことばを真正面から投げつけてくるようなことも起きたりするのだが、当の本人は、そのことに一向に気がついていない。彼の注意は、最初からまったく別の方向に向けられていて、もしかすると、こういった場合、彼の中では、僕は、無関心の他者とさほど変わらないような存在であり続けているのかもしれない。いや、恐らくそうだろう。


なごみと気づかい

なごみと気づかいを使い分けることは、なかなか難しい。彼も、僕も、同じように、それぞれを必然性の他者と認めていないことが起こるからだ。インターネット上のコミュニケーション・システムのような機械領域は、このような主観の在処を明確にせずに、履歴から計算を行なう。言語解析技術だけならば、コンピュータが間違って感情を理解するようになるかもしれない。然し、コンピュータでさえ、表情をはじめとする生態的な変化を読み取ることで、人間を知ろうとしている。

なごみは、そこにいる人それぞれの人間性を経験的に知り得た関係の中でつくられる状態だと思えるし、気づかいとは、なごみとはまったく異なった感覚を中心になって行なわれるべき表現だと思う。

2011年12月11日日曜日

セレンディヴィディ

自分が意図していない時に、何かの偶然に知り得るような発見がある。こういう発見を「セレンディヴィディ」というらしい。


セレンディヴィディ

少しひねくれたように思われるかもしれないが、僕は、そのような発見の場合、もともと、ある意味に当てはまる単語の存在を知らなかっただけではないかと思っている。つまり、そういう発見をしたと喜んでいる時には、たいていの場合、単語と意味が対になっていなかっただけのように思う。

だから、このような感覚を自分以外の人との間に感じる、所謂、「共感」というのは、最初からそれぞれの価値観で通底しているような尺度があってこそ成り立つと思う。たとえば、相手の脇腹をちょっと小突いて、相手の注意を特定の者に向けさせるような「ナッジ(Nudge 気づかせる)」のような行為は、同じ価値観の上で話していなければ、単なるチョッカイのようになってしまう。

実際、新奇なモノに対して、よく知りもしない、よく考えもしないうちから、価値判断をくだすようなコトが多く。そういう場合に、「セレンディヴィディ」のように自発的に気づくことも、「ナッジ」のように誰かに気づかせてもらうようなことも起こりそうにはない。


ソーシャル・ネットワークにおける「蓋然性の他者」の存在

ソーシャル・ネットワークにおける「蓋然性の他者」の存在は、そのような価値観を共有できるような存在ではないかと思う。そして、「蓋然性の他者」の存在に気づいた瞬間から「必然性の他者」へと変わるまでの時間をどのように捉えることができるかが、実はとても大切になろうとしているように思う。

人は、誰かと話をしていると、相手に自分の考えを適切に伝えようとすることで、自分の考えをより具体的にしたり、簡潔にできたり、あるいは、適切な事例を発見することができたりするように思う。

ソーシャル・ネットワークには、「蓋然性の他者」だけでなく、「必然性の他者」が一緒にいるから、このような状況の中では、「知域」は思わぬところで広がっていくことになるように思う。このような驚きは、やはり「セレンディヴィディ」と表現しておく方がいいのかなと感じさせる。


「無関心の他者」

それでは、ソーシャル・ネットワークには、「蓋然性の他者」と「必然性の他者」だけで満たされているのかというと、実は、その大多数が、「無関心の他者」と呼ぶべき人とでしめられているように思う。そして、実は、このような人たちが、本当の意味で、「セレンディヴィディ」のような経験を「共感」させてくれる人たちではないのかと思う。

現実世界では困難なことだけれど、ソーシャル・ネットワークには、このような「無関心の他者」の存在を確認する方法はいくらでもある。もっとも簡単な方法は、自分の知人がどのような人たちと会話をしているのかを端から眺めてみればいい。そうすると、そのような人たちは、僕に対してこそ興味を示さないが、多くの人たちと楽しい時間を過ごしている。そして、彼らが僕に対して無関心であるように、僕もまた、彼らに対して無関心であることに気がつくべきだろう。

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このような人たちに対して、「気づかいを持たない(care-less)」であることが、僕たちの世界の広がりを妨げているようにさえ思う。では、なぜ、「無関心の他者」に見えるような人たちがこれほどまでたくさんいるんだろうか。

蓋然性の他者

蓋然性の他者

僕たちは、この世界が多くの人びとによって作られてきたと知っている。そうした人々というのは、自分の周りにいるあの人、この人といった特定の人だけではなく、僕たちはその存在について何も知らない、そのうえ、正確に数え上げることさえできないほど無数である。しかし、間違いなく、彼らは存在するはずである。僕は、こうした「存在するはず」と仮定することのできる他者の「蓋然性」に着目したいと思っている。

ソーシャル・ネットワーク上には、自分の持ち合わせない知識や技術を持った人がいるはずで、そうした「蓋然性の他者」が、自分の経験を補完してくれることを僕たちは、経験的に知っている。

僕たちは、これまでも、この「蓋然性の他者」が作り出した世界に住んでいる。しかし、こうした「蓋然性の他者」の存在を確認することはできず、本や制作物を通して、その本に書かれた記述から想像していたに過ぎない。勿論、本も制作物も、誰かが作り、誰かがそれを自分の眼の前に運んだからこそ、それらは、僕の眼の前にある。

インターネットによって、そうした「蓋然性の他者」が突然僕たちの眼の前に現われる可能性を持ち始めたと思う。すくなくとも、ソーシャル・ネットワークと呼ばれる世界には、このような出会いの可能性で満たされているのだ。

2011年12月10日土曜日

経験を補完するソーシャル・ネットワーク

僕たちは、 ソーシャル・ネットワークに多くの可能性を見いだしている。その可能性を大きく広げるには、情報がなによりも欠かせない。

もっとも、情報とは漠然とし過ぎている。だから僕は、この情報を、知識・技術・経験という3つの要素に分けて考えてみることにした。


知識と技術と経験の違い

僕たちは、文字から知識を得ることができても、技術を得ることはできない。技術を得るには、身体的な修練や実践が必要になるからだ。文字から得ることができるのは、ただの知識に過ぎない。

同様に、知識や技術から経験を得ることもできない。

アリストテレスは『形而上学』の中で、技術的知識(ノウハウ)のような概念を使いながらも、知識や技術から、経験をあきらかに区別している。

医者は、風邪の治療方法についての知識を持っている。どのようにすれば、その知識を治療としていかせるかを学び、実践する。しかし、特定の患者には、その方法が必ずしも有効でないことを学ぶには、経験が必要になる。

知識や技術が、全体に対して普遍的であることに対して、経験は個別で考える必要がある。

学問や技術・武芸などの技術的知識を練り磨くことを「修行」というが、山伏や阿闍梨は、このような能力を磨くことを「験(げん)を積む」といった。僕たちが「経験」と表現することは「修行」と呼ぶほど強く意識した行為ではないけど、知識や技術を無意識に練り磨く行為であることは納得できる。

現代社会では、経験科学と呼ばれる学問があるらしい。ジンクスやアノマリーは、そうした経験科学のように捉えられている。ジンクスは、因縁のように思われる事柄を指すが、精神的な暗示効果が大きいように思われる。スポーツ選手は、同じユニフォームの色や前日の食事など、小さなジンクスを大切にしたりするらしい。また、アノマリーとは、株式市場などでの経験則である。理論では説明できないが経験的には説明できる市場変動の法則のことであり、たとえば、「ジブリの法則」などが有名である。

NSJ日本証券新聞の11月25日の記事
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☆12月9日の日本テレビ系金曜ロードショーの放送作品が、当初の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」から「天空の城ラピュタ」に変更された。市場の一部で金曜ロードショーでスタジオジブリ作品が放映されると、その日もしくは週明けの株式や為替市場が大荒れになることが多い、というアノマリー「ジブリの法則」がささやかれており、今回も要警戒との見方も出ている。(Q)
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ところが、このような経験科学は、実際にやってみなくては、あるいは、起こってみなくては、効果が得られるかどうかわからない。そのために、経験科学は、「験をかつぐ」という言葉があるように、吉兆を暗示する出来事のように捉えられることも少なくはない。

それでも、経験が大切なことは、過去の状況と同じことが再現される場合に、その時の経験を生かすことが求められる為である。


知識・技術の広がり、経験の深さ

文字を読み書きする能力が人に備わっていることを表す割合を「識字率」がある。「識字率」が高いと、より多くの知識を吸収することが可能になる。「識字率」は、知識の広がりを計る上でとても役に立ちそうである。

知識に基づいて実践される割合を「普及率」として表現してみよう。当然のことながら、技術はじめて試されるのは、実践にほかならない。だから、スポーツなどの実践を欠かすことのできない分野においては、「普及率」は、実践の広がりを計る上で役立ちそうである。

では、経験はどのように考えるべきだろう。

経験には、「識字率」や「普及率」のような参考になる数値はあるのだろうか?前述したように、経験は、すべての事柄に対して当てはまる普遍的なものではない。むしろ、個別に対応できる為の知識と技術を別途要求することになる。だからこそ、経験が重要であることは間違いないはずだ。このような経験値は、単純に何かができるとか、何かをしたという数値で表現することは、極めて難しい。

僕たちは、経験を表現する時には、経験が浅いとか深いといった表現をするように、それぞれの個人の経験を量的に表現していることは間違いないだろう。とはいえ、そのような表現をすることを知っていたとしても、僕たちが、他人の経験の深さを計る適当な手段を持っているかというと、とても怪しくなってくる。

もっとも、自分が一度なりとも経験していることについては、他人が同じ経験を経て、ある種の対策方法を知り得ているかどうかを見分けることができるように思う。そして、その対策方法は、通常の知識・技術ではなく、ある特殊な知識・技術を用いることであったりする。


エヴァンゲリオンのシンクロ率

エヴァンゲリオンというアニメの中で、「シンクロ率(以下、同調率)」という表現が出てきた。エヴァンゲリオンとは、一見、巨大なロボットのように見える生命体を操縦士が操作する際、精神的な同調が前提になっている。つまり、「同調率」は、エヴァンゲリオンと操縦士の同調する割合を表わしている。だから、複数の操縦士も、エヴァンゲリオンの個体との「シンクロ率」がとても大切になる。

卓球のラケットのグリップを自分の手の大きさに持ちやすいように削ったりするように、道具というものは、ここの身体の異なりにあわせて、個別に最適化する必要がある。

エヴァンゲリオンというアニメの内容について知らなくても、個と個の関係においては、なんらかの形で最適化した状態がとても大切だったりする。経験とは、そうした「個別最適」のための知識・技術ではないだろうか。

勿論、どれだけ固有の「個」が存在しているのかを知ることは、極めて難しいことはいうまでもない。しかし、一旦、そのような「個」の存在が明らかになったとき、対応できる能力が経験であると言えるのではないだろうか。


経験の深さと同調率

経験に限っては、ある特殊な「個」に対する知識・技術が重要な役割を果たしていることは間違いないように思う。そして、そのような特殊な「個」の存在を多く知っていることは、「経験が深い」と言って表現され、ひとつの特殊な「個」についての知識や対応する為の技術は、「同調率」のように表現されるように思う。

このような確信も、自分自身だけに当てはめれば、うまく表現できているように思う。しかし、この確信そのものが、個人的な経験にもとづいているために、他の方には、ちゃんと合点がいくのであろうかと、なんとも漠然として仕方がない。もっとも、そうした個別の評価を表わすことが、経験を自覚する上でとても大切なことであることは間違いないと思っている。


ソーシャル・ネットワークの可能性

自分に足りない経験とは、ある特殊な「個」に対応する知識・技術であると書いた。なるほど。ソーシャル・ネットワークでは、そのようなをある特殊な「個」に対応する「知識・技術」を他者に求めているのではないかと思われる。つまり、ソーシャル・ネットワークとは、僕たちに欠けている経験を補完する手段となりうるのだ。

眼の前にある現象は、自分では理解できない特殊な状態、特殊な「個」であるのだけれど、ソーシャル・ネットワークには、多くの人たちが、それぞれに固有の経験を行なってきている。だからこそ、それぞれの人が偶然、そこに持ち合わせた「知識・技術」に照らして思い当たるようなことがあれば、自然と耳打ちしてくれる関係が心地よく思えるのではないだろうか。

もっとも、そうした他者が気づいて教えてくれた「知識・技術」は、自分自身が、易々と獲得できる「知識・技術」であるとは限らない。しかし、身近なサービスとして提供されていることが多いのも、現代社会の特徴であるし、きっかけさえ見つかれば、そうした「知識・技術」を補足するような詳細な情報が見つかりやすいのも、このネットワーク社会の特徴であるように思われる。


多様な問題への備えとしての「知域」

このように考えてみると、ソーシャル・ネットワーク上では、似通った価値観の人たちからは、特殊な「個」への知識・技術を期待することは難しいように思われる。

多様な問題にたいして備えることができるソーシャル・ネットワーク上の人間関係。これを「知域」として呼ぶべきなんではないだろうか。

2011年11月30日水曜日

知の素性

以下、個人的な思いにすぎないのですけど…写真とそれを論じることには、この時代のコミュニケーションの問題を解決する為のヒントがあるように思っています。だからこそ、僕は、[ロラン・バルト]の『明るい部屋』からはじめてみるのが面白いと思います。

写真のような視覚的な情報を認識する際、人は、今見ているもの(それ)が自分の記憶にある過去に見たもの(それ)と同じものかを何度も確認します。このようないちいち疑ってかかるような認識が、僕たちが失いかけている事物のリアリティの問題をふたたび浮かび上がらせてくれるんじゃないかと思うのです。

『明るい部屋』という作品では、最初に、写真と言語の結びつきが論じられています。ところが、後半、一転して、バルトは、自分の亡くなった母親の面影を留めた写真が見つからないことを明かし、それをことばによって掘り起こそうとしていくのです。

母親の写真は何枚もあるのに、バルトの記憶にある、あの面影を留めた写真を探していくこと。こころの内側にある思いをことばにすることのもどかしい試みです。本来的には、人がこころのうちにある思いをことばに置き換えることの難しさは、こういうところにあるのではないか?と思うのです。

安易に身近なことばを拾い上げて、自分の感情だと言い切ってしまうことは容易い。大手レコード会社では、ヒット曲の歌詞を言語解析して、頻繁に出てくる単語を新曲に使うようなことをしているそうです。こころに甘美な感情を引き起こさせる脳内麻薬のようなことばの力を、その効果だけを期待して、簡単に、倫理的な躊躇もなく、しかも、作為的に挿入してしまうことができることばの措かれた現実。

とても残念なことなんだけど、ことばそのものは、そもそも誰のこころのうちと結びついていたものなのかを示すような「知の素性」を持たないのです。だからこそ、「知の素性」のような、これが何処からやってきたのかを探ろうとする姿勢を持って、言葉に接する必要があるはずなのです。

そして、だからこそ、写真のように、それそのものだけならば、なぜそれがそこにあるのか、なぜその写真がそれを見せてくれているのか、を疑問に思えるメディアが生まれたことは、本当に素晴らしいことだと思うのです。

もっとも、バルトの『明るい部屋』が最初に展開するのは、母親の面影についての考察ではなく、写真と言語の間にある強い結びつきだったりします。つまり、写真は、生まれたときから、言語のもつ強い強い力と引き離せない関係にあって、この社会のなかでは、ことばの呪縛に囚われている間には逃げられないようになってしまっているんです。

つまりは、「母親の」写真ではなく、自分の記憶にある「母親の面影」を写真が留めているにすぎないはずなんです。

バルトは、写真論に限らず、多くの著書で、ことばの強さと、ことばのもつ強い恣意性を分析しています。

2011年11月28日月曜日

こころの物差し


本来、他者がことばに託す意味は、僕たちが自覚すること以上にたくさんあるはずだ。僕たちは、僕たちのこころが自発的に受け取る(プルする)ことのできる「共感」と「セレンディビティ」程度の意味しか受け取ろうとしない。

「共感」は、自分が元々受け取りたいと意図していた価値観であることが多く、「セレンディビティ」は、意図せず偶然受け取ったような賜物的な価値観であることが多い。そして、たいていの場合、他者の意見とは受け取りを拒否したいと思っているような他者の「押しつけ(プッシュ)」のように感じている。

だから、僕たちは、わずかな意味しか受け取ることができていない。しかし、僕たちが批判的に「意識」している他者の価値観というものは、実は、一度ならずとも、僕たちのこころに刻まれたことのある「意味」でもある。だけど、なんとなく難解で厄介な記憶のなかで、そのような「意味」の受け取りを拒否するようになったものだと思う。

このような「意味」を含めて、僕たちのこころに許容できている「意味」は、人間が常に新しい能力を身につけてきたという人類の可能性から考えると、とても少ないように思えるのだが、現代人の多くは、もういっぱいいっぱいに感じているのかもしれない。

こころの中で捉えられる「意味」を測る尺度というのは、数理的な解釈をしてみると分かりやすい。

数直線の上には、整数のような「有理数」が存在している。「有理数」と「有理数」の間にたくさんの「無理数」が存在している。僕たちが意識している「意味」とは、「有理数」のようなものだと思えばいい。そして、他者の意識している「意味」は、運よく「有理数」としておくことができるときもあるのだけれど、最近では、頻繁に、「有理数」と「有理数」の間にあるような「無理数」のような「意味」になってしまうことがある。なんとなく判ったような気がする瞬間もあるのだけれども、面倒になって、数直線の上に現われないことさえ起きはじめている。

このような道の数字に出会うことが起こるのは、学習の経験がとても退屈で、楽しいものじゃないと思う人が多いことに起因しているのではないだろうか。

このような自分のこころの中に措くことのできない他者の感情を受け取ったり、それに気がついたりすると、こころは、どこかもどかしいし、どこか消化不良で、気がつくと、そんなもどかしいもので溢れそうになっていることがある。

自分のもどかしい思いと同じように、他者ももどかしい思いをしているはずなのに、自分の物差しに刻まれた尺度が大雑把すぎる為に、相手の意味をとらえることができない。勿論、尺度が細かければ、すべてにことが足りるという訳でもない。大きな概念には、大きな尺度も必要になるはずだろう。

僕たちの「こころ」を測る為には、僕たちは、その物差しの尺度を確かめながら、他者の言葉を聞く必要があるはずだ。

2011年11月15日火曜日

共同社会と利益社会


ゲマインシャフト(共同社会)とゲザルシャフト(利益社会)では、知識を共有するのか、独占するのかで明らかに異なると思います。

エマニュエル・トッドが指摘したように、家族システムは、『世界の多様化』の根拠になっているように思います。そして、家族は、家族という同胞を守るための最も小さな単位のゲマインシャフト(共同社会)です。そして、地域社会は、これまで、こうした家族を単位に構成されていました。言い換えれば、地域社会は、部族であったと言えるのではないでしょうか。
家族システムでの知識の共有、経験の共有が、個々の価値観を形成し、さまざまな物事を理解するための概念基盤となり、社会を安定化させる言語や文化的コンテクストを生みだし、育んできたと思います。
僕たちは、核家族化の流れに乗って家族システムを細分化し、物理的に分散し、それぞれの都合に合わせた時計を持つようになった。その結果、個人消費の快楽に身を委ねて、家族と行なってきたような、知識の共有を怠ってしまったのかもしれません。
僕たちの得ることができる知識は、コンビニエンスで、グーグルで検索し、アマゾンで購入し、フォロワー数で評価され、プラグアンドプレイできるものと信じいるかもしれません。
でも、知識と経験の間には、大きな隔たりがある。それは、アリストテレスが『形而上学』で述べていたように、個別の現実に対応できるかどうかということ。経験には、「この子には、こうしてあげるといいのよ」といった母親やかかりつけの医者が知っているような、より深い、より個人(個別)最適な知識があります。
多くの人が不安を抱く背景には、自分だけの事情、自分の関心がある事情に個別最適した知識を持つ人が不在な状況があると愚推します。
現代社会では、『経験を伴った知識の共有化される範囲』は、『地域』ではなく『知域』なんだろうなあ、と思います。玉置さんの指摘されていた『知域』という言葉の中に、僕がハッと息をのむような思いにさせられるのは、仮想的な家族システムのような影が見え隠れすることです。

なぜ、ノマドでありながら、シェアハウスなのか?

僕たちが、新しい世界に踏み出していることは間違いないと思います。その世界は、自分だけが「面白い」と感じる美学的なセンスで溢れているのかもしれません。だから、本当の家族にも、その知識がどのような系譜で得られたものか、うまく説明できないかもしれません。特に、科学的な知識というものは、もはや記号や呪文のように思える言語を駆使して生み出したメタな言語である為に、本当の家族にはわかってもらいようがない。それほど、知識の共有は、知識の偏愛の中で、偏ってしまっている。しかし、自分たちが身につけた知識を目の前の現実に応用したい、個別最適してみたい。そして、そこに経験が生まれるのを誰かと共有していたいのではないでしょうか。

どのような「利」を持って、個を「益」するのか、『利益社会』は大きく変わろうとしている。金銭という単位では、失われた「経験」の場を取り戻すことができないのではないのでしょうか。

古代ギリシアのポリス市民は、「家族内における生命の必要〔必然〕を克服すること」と考えて、「暴力」を肯定しました。そして、自らの「経験」の場をポリスの政治的活動に求めました。なぜなら、そうすることによって初めて、ポリス市民は、自らの存在をリアルに感じることができたからです。卓越した能力を持ったポリス市民は、そうしなければ、家族の中では、ただ得意な人間であっても、理解者が得られなかったのです。僕は、ポリス市民が私財を投げ出して、ポリスの政治的活動に参加しようとした背景を現代社会の物差しで測ることは難しいと思っていましたが、ここにきて、どのような「利」であったかを考えるにつれて、見えてくるものがあります。

僕たちは、金銭がさまざまな代替物に置き換わるという「利」をもたらす事を知っています。しかし、共有された「経験」が「利」をもたらす事をなかなか公言しようとしません。でも、僕たちの捉えていた「利益社会」は、概念基盤を変質させようとしているし、ある「知」に興味を抱く人たちが得ようとしているのは、その「知」を「経験」に変えることなんじゃないでしょうか。そして、「経験」は、冒頭に述べた「独占」という概念に生理矛盾を引き起こしてしまうんだと思います。

原発事故をみて、ウォール街占拠をみて、原子力や金融工学の知識は、「知」を共有できても、「経験」を共有できません。911や311では、「経験」を共有できても、「知識」の部分は隠されてきている。

現代のマスメディア報道は、そのように考えてみると、「生命の必然」とも思えるような「知」を与えてくれません。それが、家族ではなく、国家を存続させる為の「必然」だと言われても、僕自身は納得がつきかねます。でも、その因果関係を証明する方法はない。だからこそ、ソーシャル・メディアによって、ひとびとが知識を共有し、体験を語り合い、あえて「暴力」を選択しているような時代を垣間見ている思いです。

僕は、社会は共同体であると思っています。それは、家族システムのような概念基盤を核にして、言葉を生み、育み、僕たちを守ってきました。だからこそ、共同社会を否定するつもりはありません。一方で、利益社会は、さまざまな物質的循環を効率化してきました。しかし、「金銭」という尺度だけでは、国全体に張り巡らされた流通網も、部分的に壊疽させてしまうような状況をつくり出している。国家に帰属する僕たちが、自分たちの身体の一部を壊疽させることを必然だと選択することは、麻薬に取り憑かれた患者と同じで、間違っています。

国会にまかせて考えてもらうのではなく、「利益」のあり方を考えるべきだと思います。それは、「金銭」によるものなのか、「知識・経験」によるものなのか、は一つの論点になるんだと思います。

その上で、もっと多くの議論をして、僕たちの「共同社会」の概念基盤を明確にしておくことが大切だと思います。

2011年8月26日金曜日

ハンナ・アーレントのリアリティ


ハンナ・アーレント]は、政治哲学者である。

これが、僕の最初の理解だったのだけれど、どうも怪しくなってきた。

アーレントの著作『人間の条件』をある人から勧めらるままに読み始めた。

飛びついた結果、ついに『精神の生活』まで手を出して読み始めた。

最近、[アーレントのことば]というブログまで書き始めた。

かなり、やばい。


そういう事情もあり、アーレントという人物への実感がわいてくる。すると、政治哲学者という分類はしっくりこない(注1)

僕なりに捉えてみると、アーレントは「人間の言論と活動」がどのようにして現象化するのかといったメカニズムのようなものに関心を持っているのではないかと思う。これは、従来の哲学者が、人びとの言動を観察しながら、倫理観のような善悪の基準を見い出そうとしてきたことと大きく異なる。

意味の探求によって生まれるもの]というブログでも触れたことだけど、アーレントにとってのリアリティというものは、とにかく「意味」を考えることから始まっている。そして、その始まりの対象が、とにかく古くまで遡る。だけれど、アーレント自身の感じるリアリティが見つかるまでが半端じゃないと思う。

たとえば、ひとつのことばの成り立ちは、一冊の本のなかでも、彼女の著作となっている本の間でも、歴史的な踏襲がとても意味を持ってくる。こうした作業は、本の中に出てくる哲学者たちへの言及でも明らかだ。書物などからでしか辿ることのできない先人の考え方であっても、よくよく噛み砕きながら、自分の考え方との違いを浮き彫りにしていく。まるで、先人の残した思考の道筋やそこに残された足跡と、自分の足跡のひとつひとつをかさねては、その差分を計っているようだ。

今までにも思想家といわれる人たちの本を読んだことはあるけれど、彼らの著作に感じた深遠さや重厚さとは異なる、剛胆さや精緻さに眼を見張ってしまう。それでいて、大胆にもアーレントは、偉大な哲学者たちの思想などおかまいなしに、自分の活動領域に向かって突き進んでいく。

僕の直感が間違っていなければ、アーレントが見つけたいことは、「彼女なりのリアリティ」ではないだろうか。

勿論、たくさんのリアリティを重ねていった先に辿り着くような答えがあるのかもしれない。しかし、リアリティを感じたこの瞬間の次の瞬間においても、アーレントは「意味」を考え始めているように感じる。

そう考えだすと、僕にはついつい抱いてしまう妄想がある。それは、プラトンが自然科学の時代に生まれていたら、どんなことを考えたか?という妄想である。

その時、そこに、アーレントの姿が重なってしまうのだ。

アーレントが「哲学者」としての肩書きを伴ったプラトンを好むかどうかは判らないが、プラトンという人のリアリティを強く感じていたのではないかと思うことがある。

どう思うかは、本人にしか判らない。それがリアリティというもの。


僕が、アーレントに政治哲学者という分類がしっくりこないのは、アーレントという人のリアリティを感じ始めているからかもしれない。

これなら判る。


注1:私は「哲学者」だと言う気はないし、また、「哲学者」でありたいという訳でもないのだから。『精神の生活(上)』p5

2011年8月8日月曜日

社会意識を動かす企業

マイクロクレジットの提唱者であるムハマド・ユヌスは、「ムハマド・ユヌス自伝」で、
欲望は自由な企業活動のための燃料であるだけではない。社会に対する目標もまた、強力な意欲を引き起こす力であり、貪欲さにとって代わることができるものなのだ。社会意識を動かす企業は、欲望を土台にした企業にとって、手強い競争相手となるに違いない。正しいカードを出せば、社会意識が動かす企業は、市場でもとてもうまくやっていけると私は信じている。p280
と述べている。

フラジャイル

僕たちは、些細だけれども、無数な罪の意識によって欲求を抑制しながら、「7つの大罪」のような致命的な大罪を起こさないように生きている。

松岡正剛の「フラジャイル」には、
本書で「弱さ」とか「フラジリティ」という時には、そこには多様な意味が含まれる。弱さ、弱々しさ、薄弱、軟弱、弱小、些少感、瑣末感、細部感、虚弱、病弱、稀薄、あいまい感、寂寥、寂寞、薄明、薄暮、はかなさ、さびしさ、わびしさ、華奢、繊細、文弱、温和、やさしさ、優美、みやび、あはれ、優柔不断、当惑、おそれ、憂慮、憂鬱、危惧、躊躇、煩悩、葛藤、矛盾、低迷、たよりなさ、おぼつかなさ、うつろいやすさ、移行感、遷移性、変異、不安定、不完全、断片性、部分性、異質性、異例性、奇形性、珍奇感、意外性、例外性、脆弱性、もろさ、きずつきやすさ、受傷性、挫折感、こわれやすさ、あやうさ、危険感、弱気、弱み、疎外感、愚者、弱者、劣性、弱体、欠如、欠損、欠点、結果、不足、不具、毀損、損傷…。

おそろらくは辺境性、辺縁感、境界性といったマージナルな感覚もここに含まれる。そのほか、ともかくも「弱々しいとおぼしい感覚や考え方」のすべてが本書の対象となる。それらを一言で何とよぶべきかわからないので、私としては自分がかねて気に入っている言葉で、取り敢えず「フラジャイル」とか「フラジリティ」という言葉をえらんだのだ。
という記述がある。

僕たちは、「良い」という漠然とした価値観から少し外側にはみ出す感覚を持つ時、どこかフラジャイルな感覚を感じているのではないだろうか?勿論、それは、「7つの大罪」とは明らかに異なって、とてもとても小さな後ろめたさだと思うから、「罪」という言葉が当てはまるなんて思わない。
これは社会的な弱さというものである。そこには、ありもしない健常性や正常性という平均値が想定されていることが多く、社会の枠組みを支える為の常識や良識が斧をふるっている。それゆえにその平均的な正常性から少しでも変異したり、ずれた者には、時に悪意を持って弱者の規定がくだされる…
これは弱さや弱者はもっぱら排除の対象とされる歴史を背負ってきた。弱さは異質性や異常性として理解され、ケガレやキヨメの対象にされる。我々の子ども時代にも体験したことであるが、背が低い、顔が黒い、喋り方が変である、汚い町に住んでいる、病弱である…こんなことのすべてが弱いものいじめの標的となる。
松岡正剛のいうフラジリティは、「7つの大罪」のような大きな過ちを犯すはずはないと思っていても、僕たちの心が些細な罪の意識、それは、ちょっと正常なところから外に出てしまうような行為なんだけど、集団の中から批判を受けるかもしれない、という価値観となっているように思う。

本来、価値観とは、自分自身の言動を自律的に制御する為の規範であるはずだ。然し、一旦、そのフラジャイルな性質を持つ(あるいは、そうした案じさせるような)言動の一片でも他者から知られるところになると、暴力が発せられる口実になることに注意しておきたい。

7つの大罪

七つの大罪は、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの著作に八つの「枢要罪」として現れたのが起源である。八つの枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」である。6世紀後半には、グレゴリウス1世により、八つから現在の七つに改正され、順序も現在の順序に仕上げられた。「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「嫉妬」が追加された。
傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲…これらは、「7つの大罪」と呼ばれる。

宗教において、こうした「罪」の意識づけが行われることは、社会的な秩序を維持する上で重要であったと思う。時代の権力者は、こうした宗教的な規範を利用して、民衆の自律的な生活を期することができ、それによって安定的な統治が行えると考えていたのではないだろうか。「ダイモンのごときもの」で指摘した「西洋社会の伝統的な価値観」とは正にこうした価値観そのものであり、人がさまざまな行動を行おうとするとき、その人の意識にブレーキをかける役割を果たしてきたのではないだろうか。

勿論、この「7つの大罪」以外にも、多くの価値観が存在する。罪だけではなく、「美徳」のようなものを認めて、それを礼賛することも社会全体にとって重要な価値観になるだろう。いずれにせよ、こうした価値観は、刹那的な情動や感情、単純な思考から来る行動を抑制したりする上で、とても重要な役割を果たしていると思う。

ダイモンのごときもの

ツイッター上で知り合った方から、ハンナ・アーレントの「人間の条件」を紹介してもらって、読んでいると、次のような記述があった。
…ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p292
ん?このダイモンというのは、映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」に登場する小動物(ダイモン)にそっくりだ。主人公ライラは、いつもダイモン(パンタライモンと呼ばれている)にぴったりと寄り添っていて、さまざまなアクシデントが起こる度に、パンタライモンはライラの相談役となって、状況を打開する大切な役割を果たす。

個人的に、とても気に入っていた映画であり、最初から長編三部作として公開されたのだが、2009年12月、制作会社から続編の制作について断念することが発表された。
北米カトリック連盟が「子供に対し無神論を奨励する映画だ」などとしてボイコット運動を展開したことからアメリカにおける興行収入が振るわなかったことが理由であるとされ、原作者であるフィリップ・プルマンが遺憾の意を述べる事態となっている。
僕が気になるのは、ボイコット運動の理由である「子供に対し無神論を奨励する映画だ」という点。見えるはずの無いダイモンが、映画の中では視覚化され、ライラと会話までしている。こういった演出が気に入らなかったのだろうか?世界的な金融危機の影響も指摘されているのだが、とても残念な結果になってしまった。

ちなみに、アーレントは、冒頭に引用した部分を含む段落として、以下のような文章を書いている。
人びとは、活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうした人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的なアイデンティティの方は、別にその人の活動学がなくても、肉体のユニークな形と声の中に現われる。その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p291-292
例えば、主人公ライラのデーモンには、パンタライモンという名前まである。僕の指摘が間違っていなければ、ギリシャ宗教のなかでは本来見えないはずの存在であるにも関わらず可視化されている。しかし、その場合それは、アーレントがいう「正体」にほかならない。つまり、西洋社会の伝統的な価値観を培ってきたのは、間違いなく、宗教の役割ではなかったか、と思う。となると、この視覚化された「正体」が、宗教に代わってアドバイスを与える存在になる可能性があるとすれば、これは大問題となるのだろう。

つまり、この映画の存在によって、2つの事実が暴露される。

ひとつは、パンタライモンであるダイモンとは、西洋社会の伝統的な価値観を守ってきた宗教の役割そのものであることを暴露する。もうひとつは、宗教は、信者が意識しているかしていないかに関わらず、宗教活動に巻き込んできたことを暴露する。

このように考えてみると、この映画の表現は暗示的ではあるものの、長い間宗教的な価値観が個人の活動を巧みに操っていたと批難しているようにみえる。然し、僕自身は、それは、宗教のみならず、さまざまな価値観が、個人の背後から突き動かすように行動を促していたと考える方が適切だと思う。そして、これまで、そうした暗黙のうちに価値観を刷り込まれていたかもしれないのに、自分は常に主体的な行動をしていたと思っている現代人へ、気づきを与える作品ではなかったか、と思う。