2012年4月12日木曜日

他者とは何か?

僕たちは、本当に自分以外の誰かと同じ空間のなかで、同じ時間を過ごしたいと思っているのだろうか?

狡知(こうち)という知性。

多くの脳科学者たちは、類人猿など知能を持った動物の研究に注目している。そうした研究からは、「狡知(こうち)」と呼ばれるような知性が、チンパンジーのような高い知性を持った動物にもそなわっていることが明らかになっている。

狡知は、「ずるさ」や「悪知恵」と呼んだほうがわかりやすいかもしれない。あるチンパンジーを使った実験では、自分から行動しないで、仲間のチンパンジーに行動させるようとすることがわかっている。チンパンジーは、こうした狡知をさまざまな実践のなかで経験的に獲得するらしい。もちろん、チンパンジーのこのような行動は、人間社会でも日常的に、それも頻繁に行なわれていることは間違いないだろう。


ダブル・コンティンジェンシー。

狡知を可能にするためには、「推論」する能力が不可欠である。人間がチンパンジーなどの知性の高い動物と際立って優れた能力は、この「推論」する能力である。よくわかっていないことがあると、まず誰かが行動に出るのを待つ。そして、その行動の結果を見極めてから、自分が行動するかどうかを決める。これは、ある行動がどのような結果を招くのかよくわからない状況において、一般的に多くの人がとる行動だろう。

たとえば、銃を持ったふたりが、お互いに銃口を相手に向けたままで向き合っている。油断すれば、自分が殺されてしまうかもしれないような状況を思い浮かべてみて欲しい。

「銃を捨てろ。そうすれば、俺も銃を捨てよう」

このような状況において狡知が働くとすれば、少しでも相手より遅く銃を捨てたいと思う。しかし、双方がお互いの利益(この場合、最後まで銃を捨てないということ)に固執すれば、この問題は解決することが無い。これが、「ダブル・コンティンジェンシー」と呼ばれる状態である。


「推論」と「回避」

より高い知性があるとすれば、こうした状態そのものに陥ることを避けようとするだろう。そして、「回避(=状態そのものを避けようとする行為)」こそが、現代人の典型的な特徴のように思う。たとえば、積極的に自分以外の他者との関わりを避けようとすることが、それである。家族や友人であっても、口やかましいと思えば、回避するようになる。

このことから、以下のような「他者」の存在が見えてくる。



必然性の他者。

「必然性の他者(Inevitable-Other)」とは、家族のような存在を思い浮かべてみるといいだろう。必然性の他者は、たいていの場合、長い間、一緒に暮らしているような存在であることが多い。そのため、彼らのことであれば、ある状態ではどんな態度とるか、彼らがとりうる行動を予測・推論できることさえある。


蓋然性の他者。

「蓋然性の他者(Probable-Other)」とは、本やメディア、あるいは、別の他者からの伝聞などから得られた情報を通じて、推論できるような存在である。たとえば、物やサービスが存在するということは、それを作った人がいることを連想させる。もちろん、そうした他者とは面識がない。そして、彼らがどんな格好をして、どんな生活をしているか知らない。しかし、社会のどこかには(物やサービスを生み出している人たちがいるという)活動領域があって、その活動領域にある役割を担う誰かがいるからこそ活動が行われている。少なくとも、蓋然性の他者は、そのように推論可能である。


無関係の他者。

「無関係の他者(Innocent-Other)」とは、世界のどこかにいる人類の誰かである。たとえば、地球の人口を想像してみよう。数字上では何十億人と把握できるかもしれないが、僕たちは誰もそのすべての人を見たことはないし、聞いたこともない。概念としてのみ把握できる、いわば、純粋な人間である。たとえば、それは場所や空間のような概念と同じような性質をもっている。昔話のはじまりにでてくる「あるところ(=見知らぬ場所)」という場所が実際に存在するかどうかを疑いはじめたらきりがないのと同じで、無関係の他者は、普遍的な人間の概念を指している。もちろん、最初から回避した状態にあるから、接触することは無い。さようにとりつく島が無いので、当然のことながら推論できない。しかし、自分が人間であることを否定できないように、他者も人間であることを否定できないのは、どちらも無関係の他者と同じ普遍性をもっているためでる。


偶然性の他者。

「偶然性の他者(Contingent-Other)」とは、電車の座席で隣り合わせる人のような存在である。なぜ、そこに、その人がいるのか、勝手な妄想を巡らせることはできても、適当な理由が見つかるはずはない。現実空間では、偶然性の他者は、物理的に移動することで出会うことが多い。学校に入学した際に同じクラスになる人も、見知らぬ土地を旅するときに出会う人も、偶然性の他者である。偶然性の他者は、ある意味で自分とは異なる生活をしているし、自分の知らない知識・技術・経験をもっている。しかし、どのような知識・技術・経験を持っているかは、特定することはできないために、こうした人たちの行動を推論することはできない。もちろん、この場合の行動とは、その他者がおこなう固有の行動であり、無関係の他者のような、つまり、普遍的な人間がとるであろう行動とは区別されるものを指している。


「偶然性の他者」との対立。

ダブル・コンティンジェンシーな状態とは、(1)必然性の他者と必然性他者の対立、あるいは、(2)必然性の他者と偶然性の他者の対立、あるいは、(3)偶然性の他者と偶然性の他者の対立のいずれかである。そして、このいずれの組合わせも、回避不可能な他者が対立することによって、ダブル・コンティンジェンシーな状態が起きている。

この状態から衝突を避け、どのように回避できるだろうか?

たとえば、必然性の他者同士であれば、お互いに衝突を回避するための条件を提示することができるはずである。冷静時代、アメリカとソ連は情報戦を行ない、相手の置かれた状況を的確につかむことで、より有利な状態に移行しようとしていた。数学者のジョン・ナッシュは、互いに非協力的になってしまう状態のことを「ナッシュ均衡」と呼んだが、対立する他者が偶然性の他者でありつづけるかぎり、自分が置かれている状況や文脈から発想するような、自分と同じような考えをしているはずだという思い込みだけでは推論にはならない。この状況は、対立するいずれか一方でも、偶然性の他者としてみなされる場合には膠着することになる。なぜなら、他者との対立を解消するのは、それぞれの立場から相手がとるであろう今後の行動に合理的な判断(=推論)ができる場合に限定されるためである(相互主観性)。


現代人が恐れていること。

このように整理してみると、「偶然性の他者との対立」は、現代人がもっとも恐れていることではないかと思えてくる。現代人は、家族や友人のような関係においても、自分の興味関心といったものが十分に理解されないと思い込んでいる人が多い。ただ一緒に暮らしているだけでは伝えきれないと感じるものが多いのかもしれない。このように考えてみると、必然性の他者は、家族や友人であっても、常に絶対的な必然性を伴った存在であることは断言できなくなってきている。

このような他者との深刻な関係を生み出している背景には、高度に専門化した言語の存在がある。もちろん、言語を使ったやりとりは現代に始まったことではない。しかし、現代社会には、極めて特殊な活動領域、専門領域といったものがあり、こうした領域で使われる言語というものは、他者から適切な理解を得るには相当量の時間と学習を費やす必要がある。そのため、他者との関係を構築するにも、どのような言語が適切であるのか、そうした選択でさえも漠然とした恐怖観念となっている。若い世代に話しかけるのに、若い人たちに共通する話題のようなものが無いことがひとつの現れとなっている。だからこそ、最初から他者との関わりを避けて、自分だけの世界に閉じこもろうとするような精神行動も増えているのかもしれない。


脳科学のアプローチ。

最新の脳科学では、「笑顔」が及ぼす脳への影響が着目されているようだ。どんなに見知らぬ人同士でも、人の表情のうち「笑顔」だけは、相手の警戒感を和らげるのに役立つということが研究成果として発表されている。また、別の脳科学の研究では、人間は、意識を向けている相手との間に「差」を感じることでネガティブな感覚を持ち、「横並び」に感じることでポジティブな感覚を持つことが報告されている。

こうした脳科学の研究成果によっては、未来の人間関係のありかたに抜本的な解決方法がもたらされるかもしれない。このような研究成果は、無関係の他者のような普遍的な人間にたいするアプローチとして捉えることができるならば、光明と思えるものである。

僕たちの社会には、いつも例外的な人間がいる。しかし、それはすべての人が同じでないことを考えればもっともなことである。だからこそ、どれだけ高尚な知識が共有されるようになっても、「人格」が実際の行動に与える影響はとても大きい。かりに運良く、同じ言葉の意味を受けとってもらうことができたとしても、言葉に込められたメッセージは、受け手の人格によって解釈されるのだ。つまり、猜疑心の強い人には何を言っても、その人に向けた言葉がその人のリアリティに響くことがなければ意味はない。繰り返すが、現代社会における言語は、ごく限られた領域でのみ目的の通りに機能することが一般的な理解になろうとしている。


「共通する何か」を探ろう。

だからこそ、同じ人間であるという一点において、「共通する何か」を見いだそうとすることを怠ってはならない。「脳科学のアプローチ」が、まさにそのような探求にほかならないだろう。

現代人が他者との衝突を恐れ、趣味などをはじめとして自分の興味関心が向かう世界に没入してしまおうとする気持ちはわからなくはない。しかし、今いる世界からエクソダス(脱出)できても、新しい土地では、ほとんどの人が「偶然性の他者」となる。もちろん、よくわからない相手と対立することは苦痛かもしれないが、相手も同じように苦痛を感じていることを忘れてはならない。だからこそ、わずかな光が差すなかに「共通する何か」を探ろうとすべきだろう。

たとえば、それは笑顔で笑うことでもいいし、相手と同じ目線の高さになるように姿勢を変えてみることでもいいし、水や食べ物を摂ってみることでもいいし、同じ花を見るようなことでもいいだろう。いずれにせよ、「推論不可能」と決めつけていた「偶然性の他者」を「推論可能」な「必然性の他者」にする糸口を見つけるには、自分勝手な思い込みや「推論」のように、「一方的に感じること(sense)」ではなく、謙虚な姿勢から「共に感じること(consent)」が必要になるだろう。


同意すること(consent)。

他者とのあいだに同意することを見つけるのは、言語のようなものではなく、作用に対する反作用のように、直接的に眺めながら、その反応を感じあえるものでなくてはならないだろう。そうした光景では、「笑顔」は、お互いが「共に感じること(consent)」を明かすものになるはずである。

「同意すること(consent)」と日本語で訳される単語は、ラテン語の
consentīre (con-共に+sentīre感じる=同意する)
を語源としている。

なるほど。たしかに、「同意する(意味が同じに思える)」ということは、「共に感じること」の上に積み上げることができるリアリティなんだと思う。

2012年1月16日月曜日

コミュニケーションとは何か?

映画『惑星ソラリス』。

少し古い映画の話をしよう。アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』は、チョークリバーの流れにあわせて脈動する水草の映像から始まる。それは、惑星ソラリスの全体を、知性を持つ有機体である海が被っているという設定を象徴した表現である。人類は、惑星ソラリスとの接触を試みるために宇宙ステーション「プロメテウス」を送り込む。しかし、惑星に近づくにつれて、乗組員たちは精神的な障害を訴えるようになり、自殺者まで現われ、遂には通信も途切れてしまう。そのため、心理学者クリスが原因究明の為に派遣されることになる。

クリスが「プロメテウス」に到着して数日が経過したとき、クリスの前には、10年前に自殺した妻のハリーが現われるようになる。それは、惑星ソラリスの海がクリスの潜在意識を読み取り、その上で送りつけてきた実体であった。


コミュニケーションとは何か?

映画の中で人類は、惑星ソラリスが知的な存在であることを知っている。にもかかわらず、プロメテウスを送り込んで調査しようとする。このような行為を人と人の関係に置き換えて考えてみると、それは、双方の合意を得ない状況では一方的なことであり、暴力的にさえ思われることである。たとえば、突然、近くに見知らぬ人がやってきて、こちらの承諾を得ることもなしにあれこれと詮索をはじめるような状況をイメージしてみて欲しい。もちろん、ソラリスのように星ほどに大きな人はいない。しかし、繰り返しになるが、映画の設定では、惑星ソラリスは、間違いなく知性を持っていることがわかっているのだ。
人類は、惑星ソラリスに対して調査をはじめている[A]。
惑星ソラリスは、人の潜在意識を読み取り、それを実体化させている[B]。
この[A]と[B]の行為は、コミュニケーションと言えるのだろうか?


スカイプ鍋をして見えてくる人格

最近、何度かスカイプ鍋をしてみる。スカイプ鍋とは、テレビ会議ソフト「スカイプ」の音声通話機能を使って、インターネット上で知り合った複数の見知らぬ人たちと一緒に会話を楽しむというものだ。お互いに面識がないので、最初に自己紹介から始めるようにしている。参加者によっては、アイコンに自分の写真を使われていたりする場合もあるけれど、会話の中から得られる印象から相手の人格を思い描いていくような作業がとても面白い。

一通りの自己紹介を聞きながら、相手のイメージを思い描いていくのだけれど、履歴書のようなフォーマットが用意されたものに情報を埋めていくこととは異なって、言葉から想像されるイメージがなによりも大切になってくる。

かりに、[A]のような調査目的で、自分の聞きたい質問項目を埋めるような会話に注力すると、質問をしている人は効率的な回答が得られると思って、満たされた気持ちになるのかもしれないが、会話者同士の相互理解という状態とはほど遠いことになってしまう。

一方で、[B]のように潜在意識を実体化させることはできないが、スカイプ鍋の会話では、お互いの考え方や価値観がわかってくるように思えることがある。参加者のひとりが言ったことを自分の経験に当てはめてみて、自分なりの解釈で相手のイメージとのズレを確認しようとするようなやり取りが多くなることから、自然とそのような感覚を持つようになる。


自分自身を捉える基準。

僕たちは、会話を通して、自分がどのような人間であるかを具体的に述べたり、客観的に述べたりする。もちろん、大勢の見知らぬ人たちの前で自分自身について話すのは、恥ずかしいとか、不遜だとか、さまざまな心理が働くだろうから、自分自身を表現することは日常的な表現活動とは少し違うかもしれない。でも、はじめて会う人によりよく自分をわかってもらうことは大切なことであることは間違いない。その為にも、自分自身をよく知っておく必要がある。

たとえば、自分がどのような人間であるかを具体的に列挙しようとすると、誕生日、誕生地、性別、身長、体重、家族構成、職業などといったことに及ぶことになるだろう。こういった具体的な自分というのは、自分以外の誰にとっても社会的な通念の中で分類されるような属性値でもって分類できる[a]。

また、自分がどのような人間であるかを客観的に列挙しようとすれば、「普段は、こういうことをしている」とか、「何々するのが楽しい」といった具合に、自分自身を第三者が眺めるように観察していることになる[b]。また、このような指摘を親しい友人からされることがある。たとえば、「君は、いつも何々するなあ」と言われてはじめて気がつくようなことである[c]。

ここで言いたいのは、[a]は、社会通念としてあげたような、社会という自分を含むみんなが基準にしているような価値観に基づいて自分を捉えようとしていることであり、[b]は、自分自身が持っている価値観で自分を捉えようとしていることであり、[c]は、友人が自分との付き合いを通じて、友人の価値観に基づいていることである。


観察なのか、調査なのか?

惑星ソラリスに向かった人類は、未知なことが多いにも関わらず、人類の価値観に基づいて惑星ソラリスを理解しようとした。しかし、惑星ソラリスの立場になって考えてみると、あらかじめ同じような価値観を共有している訳でもないから、双方向な会話のようなものではなく、一方的な検査であったことは間違いないだろう。

逆に、惑星ソラリスがプロメテウスの乗組員たちに行なったことは、かれらの潜在意識に及ぶまでに徹底した観察であったことは間違いないだろう。

惑星ソラリスには、人類にはない高度に発達した特殊な感覚器があると考えられる。そのおかげで、人類が行なおうとした調査をするまでもなく乗組員たちを観察できた…と考える人もいるだろう。もっとも、宇宙ステーション「プロメテウス」が惑星ソラリスに近づく間に、惑星ソラリスになにも変化がなかった訳ではない。人類は、その変化に気づいたからこそ、ソラリスに知性を持つ有機体としての海があることを知った。にもかかわらず、自分たちが基準としている価値観(だけ)に基づいて、惑星ソラリスに近づいていったことは間違いない。


相手の意図。

僕たちは、会話を通じて相手の意図をわかろうとする。会話における言葉はある種の論理を表わしているけれど、それがすべてではない。仕草や振る舞いなどの観察を忘れていれば、それは会話そのものが可能な関係さえ破綻させる結末を招くことがある。僕たちは意味を理解した上で、その意味にたいする態度評価を行なう。つまり、意味をおおよそ理解した上で、あるいは、意味を理解できなくても、それを好きか嫌いかといったような自らの態度に表わすのである。もちろん、好きか嫌いかのいった単純に態度を表現することはごく稀なことで、そのような態度表現は仕草や振る舞いに現われたりする。だから、それに気づかない人は、いつまでも、会話が自分だけのものだと思い込んでいる。

もっとも、会話は、どちらか一方の為だけにある調査のようなものでもない。会話の中での表層的なやり取りではなく、相手の本質的な目的が見えれば、その目的に沿った会話の進め方があるはずである。そして、コンピュータを相手に行なうゲームであれば、途中で止めるという方法もあるが、人間を相手に行なう会話では、一方的な会話を強いるようなことがあれば、それは暴力的なものと何も変わらない。

しかし、惑星ソラリスにおいて人類が試みたアプローチは、そのような双方向的なものではなかった。人類が惑星ソラリスに近づくまでにソラリスが示した反応がどのようなものであったか。


潜在意識としての僕(自己概念)。

人が生きている以上、常に、いろいろな経験を重ねることになる。その結果、今すぐに解決できるようなことじゃないにせよ、やり直せることであれば、もう一度やり直したいと思うような事柄があったりする。惑星ソラリスに向かった心理学者クリスの潜在意識には、自殺してなくなった妻ハリーへの思いが強くあったように思える。

今まさに会話をしいているとき、向き合った相手の意図をどのように読み取るべきだろうか。そして、その意図に気がついたとき、相手のことを何処までわかろうとすることが大切なのだろうか。少なくとも、知性を持った惑星ソラリスは、クリスの潜在意識を読み取ることで、妻ハリーの実体とクリスが向き合うことのできる状況を作り出したのだ。

クリスからしてみれば、自分自身が基準になって捉えている自分(I)[a]でも、自分が捉えている客観的な自分(me)[b]でもなく、他者が捉えている自分(you)[c]が、自分の潜在意識に気づているという現実がそこにある。

それは、心理学者が、観察者としての心的疾患を抱えた患者と向き合うことに酷似している。クリスは心理学者である。だが、彼の観察者となった惑星ソラリスは、心的疾患をかかえる患者としてのクリスに潜在意識に向き合うことができる環境をつくり出してみせる。他者には自分のことはわかるはずもないと思いたい気持ちがあっても、惑星ソラリスは、クリスが見間違うことのないハリーを実体化して見せているのである。もはや、他者が、自分でさえ気がつかない、自分の潜在意識に気づくことがあるというリアリティを拒絶することもできない。


知域に生まれるリアリティ。

[A]も[B]も、双方向的なコミュニケーションとは本質的に異なるかもしれない。しかし、僕たちの日常的なコミュニケーションは、多少なりとも、そのような性質のやり取りを含む内容になることも否定できないようにも思う。

映画『惑星ソラリス』は、僕たちのコミュニケーションのあり方を考えさせてくれる。

自分さえ気がつかないような他者の潜在意識にアプローチをするようなことが、専門的な知識を持たない一般人にどこまで可能なのかは怪しい限りである。しかし、どのようなことでも、それを試みた人だけが経験的に抱くことのできるリアリティがある。長い時間一緒にいる人だからこそ感じるリアリティのようなものも、そのひとつだろう。そして、スカイプ鍋のような環境において会話することも、そこでお互いに感じることも、実際にやってみなければわからないことである。見知らぬ者同士だけど、会話をすることによってわかるようになる「知域に生まれるようなリアリティ」というものがあると思う。

たぶん、そのようなリアリティは、社会通念だけが正しいと思い込んでいる人にはなかなか共感を持たれることはないだろう。

しかしあえて、このことを付け加えておきたい。

2012年1月13日金曜日

知域におけるリアリティ


自分の興味関心を伝えること。

自分の興味関心を誰かに伝えたい。とはいえ、現実空間においても言葉を投げかけただけでは、誰も自分の求めに無条件で応じようとはしてくれない。実際、通りすがりの人をつかまえるようにして、誰かに自分の興味関心を伝えようとしてみても、自分が期待するような結果を誰からも得られないだろう。むしろ、自分の期待にそうような結果は、はなからありえないと思った方がいい。

かりに、自分の興味関心と同じような興味関心を持った人がいたとしても、そのような唐突的な行為を行なう人としての行動には不審を抱かれるにちがいない。すくなくとも現実空間では、そういったことがリアルな問題となりうる。なぜなら、迂闊に同意しようものならば、その先に、どれほどしつこくつきまとわれるかがわからない不安があるからである。


「蓋然性の他者」と「必然性の他者」。

サイバー空間では、現実空間のような物理的な接触がおこらない。だから、君が、自分の興味関心に関連するメッセージを発信すると、それを偶然見かけた人が現われ、メッセージに返信してくれるようなことだって、十分に起こりえる。

僕は、サイバー空間におけるこのような他者の存在を「蓋然性の他者」と呼んでいる。偶然、君のメッセージの内容に興味関心を示した「蓋然性の他者」は、君のメッセージに込められた内容をどれほど適切に理解しているかは定かではない。然し、君のメッセージに対して注意を払ってくれる。なぜなら、君は、この「蓋然性の他者」にとっての「蓋然性の他者」でもあるからだ。

つまり、サイバー空間では、このような「蓋然性の他者」が溢れている。もし、現実空間において面識があるような他者がサイバー空間に現われたとしたら、それは「必然性の他者」ということになる。このような他者の存在をよく理解しておくことはとても大切だ。


「蓋然性の他者」のリアリティ。

しかし、サイバー空間においては、誰かについてよく知ろうとしても、得られる情報というのはとても限定的なものだろう。本当によく知りたいと思うのであれば、現実空間において会うのが何よりも近道だ。たしかに、君の「出会った人=誰」が、ブログやツイッター、フェースブックといった情報発信をしていれば、その「誰」についてわかったような気分になるかもしれない。しかし、それは、今、こうやってブログを呼んでいる君が、僕の考えていることを読んでいるからと言って、僕のことを知らないことであるし、なによりも、僕が君を知らない以上、君は、想像上の僕を相手に知ったつもりになっていることにほかならない。つまり、僕は、君に向かって言葉を書いているのではなく、君のような「蓋然性の他者」に向かって、ブログやツイッターのような情報発信をしているのだ。

そのような立場から見ると、僕もまた、君にとっての「蓋然性の他者」でしかないのだ。


ひとつの言葉。異なる意味。

「蓋然性の他者」である僕が、君に伝えることはなんだろうか?あるいは、逆に、君が僕に伝えることができることはなんだろうか?

例えば、今からふたりでチャット・サービスを利用してリアルタイムに会話を始めたとしよう。君が書き込んだメッセージは、君自身の経験に基づく誠意ある内容だろう。僕も、同じように、僕自身の経験にもとづく誠意ある内容として会話を続けるだろう。しかし、ふたりの会話は、同じ時間、同じ場所、同じ対象を見ながら会話しているのではない。それは、ひとつの言葉が、時代や知域を超えて、異なる意味があることと同じ状態にある。そう。つまり、偶然、同じ言葉を使っていることから、自分が感じている言葉のイメージとよく似たイメージとして表現されているだけのことなのだ。

言うまでもなく、会話をするからには、会話を通して共有したい感覚というものがある。それは、ブログを書きながら理解して欲しいと思うことがあるように、会話をすることは、何かを相手に伝え、同様に、何かを相手から受け取る。しかし、遠く離れた異国の人と人が出会って会話を始める時には、お互いの身振りや表情といったものが意思疎通の手がかりになるように、サイバー空間で出会う「蓋然性の他者」たちは、偶然、似たような言葉を話しているもの同士であることをしっかりと認識しておく必要がある。


アマチュア無線の会話

アマチュア無線という趣味がある。電波を飛ばすことができる無線機ではおしゃべりを楽しんだりすることができる。もちろん、電波は限られた資源なので、国家試験を受けて資格を取得することで、固有の周波数の使用許可を得ることができる。より上級の資格を取得すれば、ラジオやテレビの開設だって可能になる。もっとも、一般的なアマチュア無線の愛好家が使う無線機は、電波出力がラジオやテレビほどに大きくない。しかし、気象状態などが良ければ随分と遠方の人とも会話を楽しむことができるのだ。日本国内の愛好家だけでなく、海外の愛好家とも繋がることができる。

偶然、合わせた周波数で話しかけてくる人は、誰とも想像がつかない人だ。勿論、長い時間をかけて話をしていくうちにお互いの興味関心について知りえることができるかもしれないが、彼らにとっては、不安定な気象条件の中で、どのようにクリアな会話を楽しむことができたかが重要なポイントになる。そして、その良好な会話を証明するために、「ベリーカード」という自分が使用している周波数を書いたカードを双方に送りあう。

サイバー空間上での会話では、このような「ベリーカード(Verification Card)」のようなものを残すことはないが、会話をした人同士の心のうちには、「こんな内容の会話をした」という程度の記憶は残るだろうし、より感情を込めて話をした後では「いい人だった」という印象も残るだろう。しかし、このカードがある本来の理由は、「お互いの存在があることを確認した」という意味なのである。


符牒による会話。

軍隊などが無線通信を行なう場合、電波に乗せて送る内容が暗号化されていることが多い。その上で、重要な命令などは、あらかじめ符牒のような当事者しか知りえない隠語であったり、作戦コードのようなものが使われる。このような業務上のやりとりで符牒のようなものを使うのは、知る必要のない人間に情報を伝えることを防ぐという目的と、間違ったメッセージの伝達を防ぐという目的がある。そして、このようなやり取りの発端と末端にいる人たちは、「必然性の他者」として繋がった関係にある。

逆説的な言い方をすれば、その符牒の内容を知ってさえすれば、その会話が何を目的として行なわれているかを知ることもできる。

寿司屋などで常連客が、「アガリ、ムラサキ、ナミダ、キヅ」などという、一般客からすれば聞き慣れない言葉を使ったりするのも、職人同士の会話で使われる符牒を聞き覚えした上でのことだろう。もっとも、地方の格式の高い寿司屋に行って、あまり聞き慣れないその地方だけでしか獲れないような出世魚の名前で「いかがですか?」と言われて、迂闊に注文すると、バカ高い時価で支払わされることになったりする。

「必然性の他者」である為には、聞き慣れない言葉は、正しくその素性を確かめることが肝心だと思う。


ひとつの言葉。ひとつの意味。

僕たちが抱く興味関心というものは、多くの場合、多様で深淵である。つまり、なかなか言葉で表現することは難しい。たとえば、サッカーが好きだという人も、少年サッカーのような話ではなく、日本の国内リーグにも興味がなく、ポルトガルのバルセロナというチームとそのチームの活動に関連することに興味があるというような具合になることが往々にしてある。その上で、そのチームそのものをガイドブックに書いてあるような情報から得た知識で表現したとしよう。たいていの場合、そのような通り一遍の知識は、こうした興味関心を抱く人にとっては当然のことであって、どのように好きなのかを的確に言い表せないとわかっていないと同じだいう人もいる。

興味関心というのは、大好きなブランドのワンピースであったり、発売されたばかりのキャラクター製品であったり、さまざまなものに向かっていたりするのだ。地球上の70億人が、そうした興味関心をいくつづつ持っているかを考えてみると、自分の興味関心を誰かと共有することの難しさがとても壮大な目標だと思えてくるはずだ。

だからこそ、「知域」が重要だと思う。
人Aの知に対するリアリティ ∩ 人Bの知に対するリアリティ 

このような立場からすると、僕のブログにも、コメントをくれると嬉しい。

2012年1月11日水曜日

知域とクラウドアイデンティティ問題

「クラウドアイデンティティ問題」。

岡田斗司夫さん(以下、敬称略)が、『評価経済社会』のなかで「クラウドアイデンティティ問題」を取り上げている。
「私が”私たり得る”部分」、つまり自我領域や自我境界そのものがネットと一体化しネットに溶け出している状態。
それを私は、魂がクラウドの中に溶けていってしまう「ネットクラウド・アイデンティティ問題」と呼んでいる。
ネットワーク社会では、「自分の本音」が持ちにくい。

twitterでRTしたり同意したりしていると、人の考え方や価値観をどんどん取り入れているだけの自分に気がつく。p279

クラウド・コンピューティング。

まず、クラウド・アイデンティティのクラウドとは、クラウド・コンピューティングのようなイメージでとらえるとわかり易い。

インターネットのようなコンピュータ・ネットワークでは、ひとつのサーバ・システムだけにアクセスが集中しないようにする為に、負荷分散という処理が施されている。その結果、ひとつひとつのデータは、ネットワーク上に存在する複数のサーバ・システムのいずれかに必ず存在するのだけれど、このデータはここにあるといったように厳密には特定しづらい状態にある。少なくとも、ユーザ側から見れば、そういったことを意識せずにデータにアクセスできるような仕組みになっている。クラウド・コンピューティングとは、そのようなネットワーク構造を雲のように見立てて表現したものである。


クラウド・アイデンティティ。

次に、アイデンティティには、「自己同一性」や「帰属意識」のような異なった訳語が使われることがある。

岡田が「私が”私たり得る”部分」と述べていることから、アイデンティティには「自己同一性」のような訳語がふさわしいように思われる。また、さまざまな人の考え方や価値観をどんどん取り入れることで「魂がクラウドの中に溶けていってしまう」と表現していることから、「クラウドアイデンティティ」とは、魂の中にあるのではなく、ネットワーク上にあるように思われる。

呟きのようなデータは、クラウド・コンピューティングのどこかに保存されている。だから、「クラウドアイデンティティ問題」では、身体と魂がワンセットになった状態ではなく、アイデンティティの断片となっている無数の呟きがクラウド・コンピューティングの中で保存された状態にある。それはあたかも、魂がバラバラになって、クラウド・コンピューティング構造の中に組み込まれてしまっているような状態に近い。

「クラウドアイデンティティ問題」とは、そうした、魂=ネットワークのように意識されるような極端な精神状態を指していて、ネットワーク社会なくしては、アイデンティティが成り立たないような「自己同一性」として捉えた方がわかりやすいだろう。


外部性記憶。

脳科学では、外部性記憶と呼ばれる知識がある。

「このことは、あの本に書いてあった」
「これは、あの人に聞いた方がいいだろう」

そういった具合に、人は、ある種の記憶を自分の記憶ではなく、外部性記憶として持とうとする。人と人の繋がりのなかで、自分の記憶を別の人の記憶に頼ろうとする人間の傾性を考えると、人は、ネットワーク社会の以前からも「クラウドアイデンティティ問題」を抱えているんじゃないか?と思う人もいるかもしれない。

もっとも、このような外部性記憶は、自分の不得手な領域の問題を外部化しようとすることであって、「クラウドアイデンティティ問題」のように、自分自身の魂を外部化しようとすることとは大きく異なる。

また、クラウド・アイデンティティ自体は、サイバー空間上にいる人物との間に、特定の記憶を委ねることとしてみなせるので、それ自体は、外部性記憶であるといえる。


知域は、クラウド・アイデンティティである。

知域は、サイバー空間上において「(意識されうる)人と人の繋がり」であり、現実空間における地域が「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」であるように、実践的な領域だ。だから、知域は、クラウド・アイデンティティになりえる。

しかし、同時に、知域は、岡田が指摘するような「クラウドアイデンティティ問題」を引き越すような背景になりえるはずである。

そのような問題を未然に防ぐには、
[人]―(知)―[人]
のように、(知)を介して繋がった人の存在を意識し、対話的なやり取りにこころがけることだ。知域で繋がる人たちは、その対話を通じて、よりアイデンティティを強くすることができるはずだ。

いずれにせよ、サイバー空間であれ、現実空間であれ、僕が、僕らしくあるのは、僕と人との繋がりの中で、どこまでが共通しており、どこからが異なっているかを具体的に意識することにほかならない。それは、向き合う人の一個的な価値、つまり、この世の中に一人しかいない存在であることを認めると同時に、認められることである。だから、そのような感覚が芽生える環境をもって、アイデンティティとして呼ぶならば、知域には、「自己同一性」ではなく、「帰属意識」のようなニュアンスを感じることになるだろう。


フッサールの間主観

例えば、現実空間に存在する家があるとしよう。君は、家を正面から眺めるだけで、家の側面があるものとしてイメージしている。当然、家には、裏面もあるとイメージしている。このようなイメージは、ほとんど無意識であったりするし、いちいち意識するものではないだろう。もっとも、大切なことは、家とはそのようなものだと君が経験的に確信しているからこそ、最初に、家であると認識できるのだ。

家の正面を見ている君の主観を、「側面を見ている想像上の君の主観、背面を見ている想像上の君の主観」たちが、ひとつの完結した家のイメージを作り出している。フッサールは、このような「(経験から生み出された)想像上の私」たちを他我(Self-Other)と呼んだ。また、他我にたいして、「今、ここにいる、この私」を自我(Self)と呼んだ。そして、家を正面から見ている自我の主観を、無数の他我による主観が協調するようにして、家のリアリティを生み出していると考えた。

このような、フッサールの間主観(他主観)の概念を知っておくと、「クラウドアイデンティティ問題」や「知域」について正しい理解が得られるようになる。


他我による主観。

では、「クラウドアイデンティティ問題」を抱えている人の場合、サイバー空間にある人の考え方や価値観を取り入れようとする時、間主観はどのように働いているか考えてみよう。

Twitterやfacebookのようなソーシャル・ネットワーク・サービスでは、ユーザのメッセージのほとんどが文字で表現されている。この場合の文字に伝えようとするものには、サイバー空間上の記号論が当てはまるだろう。

つまり、ユーザが目にするメッセージそのものは代表項のような記号表現である。

例えば、それは、国語辞典の見出し語に書かれた解釈文だけを読んでいて、見出し語が何かを知らない状態と似ている。解釈文は代表項(記号表現)であり、解釈文が添えられているはずの対象(記号内容)を知らないことになる。

解釈文を見るだけで対象がどのようなものであるかを経験的に想起することはできる。しかし、対象が何かを文字だけからイメージすることは、相応の経験があることが前提になる。つまり、家の正面を見た時に、家の側面の記憶を補完してくれるような他我たちが重要になってくる。

他我による主観は、経験の産物であり、特定の対象に対する解釈項としてみることができる。対象をイメージする上では部分的に不完全であっても、他我による主観は、ひとつの解釈項として機能することから、対象に辿り着く為に有益だろう。
ところが、経験が乏しい人は、対象に辿り着きようがない。 


「知域」とは、拡張現実感。

フッサール現象学における間主観を念頭において、「知域」の関係を考えてみると、きわめて興味深いことが見えてくる。
[人A]―(知)―[人B]
のように表現できる「知域」は、記号論的には、以下のように表現できる。
[人A]の解釈項と[人B]の解釈項は、双方が認める代表項を導き出す。
つまり、このような知域は、
人Aの知に対するリアリティ ∩ 人Bの知に対するリアリティ
であり、サイバー空間上において、共通するリアリティを生む出す可能性を秘めているのだ。そして、このような現実感は、サイバー空間上で繋がっている人とリアリティを共有したという外部性記憶によって裏付けれるものになる。

自分だけが主観として感じたのではなく、サイバー空間上で繋がっている人も主観として感じたことを確認することによって、リアリティが生まれるのである。これこそ、サイバー空間だからこそ実現しうる拡張現実感(Extended Reality)だといえるだろう。

2012年1月10日火曜日

「地域」と「知域」

「地域」と「知域」。この二つの言葉は、最初の一文字を置き換えただけなので、かなり似通ったものであるという連想が働くかもしれないが、よくよく比べてみると全然違う、まったく異なったものである。

それでも敢えて、僕は、この二つの言葉の共通点と相違点について説明しようと思う。


共通点は、人と人の繋がり。

「地域」とは、僕たちが生まれて暮らしているこの世界(物理空間)そのものを表わしている。もっとも「地域」と聞けば、より具体的な領域として、「どの地域」を指すものだと考えるだろう。そして、そのような具体的な「地域」には、その「地域」を所有している人、あるいは、共同体がいるはずであり、そこに「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」が自ずと意識されるだろう。つまり、「地域」を考える上でもっとも大切なことは、僕たちは、すぐさま連想できるような「地域」を経験的に知っているということだ。

一方、「知域」とは、インターネットによって繋がっている世界(サイバー空間)を通じて「(意識されうる)人と人の繋がり」を表わしている。とても簡単だが、これだけだ。

つまり、「地域」と「知域」のどちらも「人と人の繋がり」を表わそうとしている。これが共通点だ。


相違点は、意識。

「地域」には、「(暮らしを営んでいる)人と人の繋がり」があって、「知域」には、「(意識されうる)人と人の繋がり」がある。だから「地域」と「知域」では大きな違いがあるのだけれど、敢えてあげるべき相違点とすれば、「まさにそこにあるリアリティ」と「意識しないと捉えようとないリアリティ」ということになる。つまり、「知域」を意識しない人には、そのリアリティはないように思われる。

――

さて、この「意識」の違いがおこるメカニズムについて説明したい。しかし、このような「意識」を正しく理解するには、ちょっとした記号学的な知識が必要になる。少し大変だと思うけれど、頑張ってついてきて欲しい。

では…


ソシュールの記号学。

フェルディナン・ド・ソシュールは、記号を次のように定義した。

記号内容(意味されるもの、シニフィエ)と記号表現(意味するもの、シニフィアン)がそれである。交通標識のようなものは、標識(記号内容)が指示(記号表現)を表わしている。


もし、ここに解釈のズレが発生すると、交通標識は意味を果たさないことになる。

では、次のような状況で、僕たちが経験的に意味をしっかりと区別できることを考えてみよう。
テーブルには2本のコーラとメモが置いてある。メモには、「2人で飲むように」と書かれている。僕が先ず、そのうちの一本を開けて、コーラを飲んでいる。そこに君が現われ、メモを見て、僕に「コーラをくれ」と言う。僕が飲みかけのコーラを渡そうとすると、君はムッとする。
この状況の中で、君は、どのコーラを意識していたのだろうか?そして、なぜ、君がムッとすることになったのか?

ソシュール的な記号の解釈で言えば、僕はコーラを渡そうとしたのだから、君がムッとするのはおかしい。しかし、君は、メモの内容から「2本のうちのコーラは自分のもの」と解釈した。そして、僕が既に飲んでいるコーラではない、もう1本のコーラが自分のコーラだと考えたはずだ。

ソシュール的な記号の解釈は、権威主義的な力関係がはっきりしている場合には、ある意味で絶対的である。もし、僕がマフィアのボスで、君がひ弱な日雇い労働者であったなら、いちいち意味の違いを指摘して反感を買うようなことはしたくないだろう。実際、ソシュールは、構造主義と呼ばれる大きな権力を持つ人たちにとっては都合の良いイデオロギーを展開し、記号学はその中心的な考えになった。


パースの記号論。

ソシュールの記号論に対して、パースの記号学がある。

パースの記号論では、記号内容を対象と解釈項の二つの概念に分けている。その結果、対象を表現するのに代表項が用いられ、それを解釈項として捉えることになる。

交通標識を例にして具体的に考えてみよう。

対象とは標識である。代表項とは指示である。解釈項とは、それを見ている僕(あるいは、君)の意識した意味である。

もっとも、交通標識の意味を生活者が独自に解釈すると、さまざまな問題になりうる。

では、コーラの話に置き換えて考えてみよう。

対象は、テーブルに置かれた2本のコーラである。代表項とは、メモに書かれた内容である。解釈項とは、僕と君がそれぞれに意識した意味である。

パースの記号論では、解釈項が人の数だけ存在することになる。僕が2本あるうちの1本のコーラを自分のものとして捉え、既に飲み始めているのであれば、残された1本のコーラは君のものである[意味A]…と理解することも可能である。しかし、僕は、2本のコーラは2人のものであるが、どのような配分で分けるべきか指示されていないので、少しだけでも君に分けてあげればよい[意味B]…と理解することも可能である。


参照の違いが解釈の違い。

この違いは、現実空間に存在する対象をどのように参照しているかということから生じる。メモを読むにあたり、[意味A]では、「2本のコーラ(を飲む)」を参照し、[意味B]では、「2本のコーラのうちの1本(を飲む)」を参照している。

ソシュールの記号学では、異なった解釈が可能な場合、全体主義的な思想が優先して、力関係の強い方の解釈が優先される。だから、強い権力を持った者たちは、自分たちに都合のよい意味を定義した。しかし、だからと言って、一旦定義された意味は、状況に応じて意味を読み変えてもよい訳ではない。だから、ソシュールの記号学であれ、パースの記号論であれ、異なった読み取りができるような記号の定義そのものが、根源的な問題となる。

いずれにせよ、現実空間では、このような2つの記号的解釈の違いがある。


サイバー空間上の記号論。

サイバー空間上には、物質的なものが存在しない。映像や音声などに加えて、三次元的な表現もあるので、あたかも現実空間と同じようなものを想像する人もいるかもしれないが、現実空間で得られるような物質的な存在ではないことは間違いない。勿論、将来的には、現実空間における感覚や感触を身体や脳に信号的に送ることができるような技術が生まれるかもしれないが、今日現在、そのようなものは存在していない。

このようなサイバー空間では、記号論は歪になる。サイバー空間には、現実空間にあるような物質的なものが存在しないから、もっぱら、文字や音声によるコミュニケーションが中心になる。映像や音声も存在するが、一方から他方へ見せられるプレゼンテーション的な意味合いが強いことは否定できない。

サイバー空間上の他者が話す言葉は、パース記号論において代表項として考えられるような記号表現である。その他者は、現実空間にある特定の事物、あるいは、他者の想像している事物を「対象」として表現する。そして、僕がその言葉を聞くとき、僕は、僕のリアリティには存在しない事物を意識することが必然となる。しかし、現実には、他者にとって意識されている対象を、僕がリアリティを持って意識することはできない。

勿論、現実空間において、僕も他者もその対象を知っているのであれば、状況は異なる。
「引き戸を開けてまっすぐ歩くと段差になっているから足下に注意して、そのまままっすぐ歩いて、左に折れたらすぐに右の扉を開けるとトイレがあるんだけど、照明のスイッチは、扉の向かい側にあるから…」
と、僕の家に来たこともない人には、参照すべき対象がないし、何よりも現実的なリアリティに欠いている。


より具体的な参照世界の構築。

サイバー空間上では、現実空間と同じように機能できる参照世界が必要となっている。

たしかに、グーグルのような会社が、地球上に存在するさまざまな情報をインデックス化することができれば、現実空間の多くの物質を参照できるようになると思う人もいるかもしれない。しかし、それは現実に存在するものと似ているだけで、リアリティを持っていない。巨大な百科事典は楽しいけれど、現実空間と結びついて初めて意味がある。だからこそ、グーグルは、そうした参照世界をサイバー空間上に構築しようとしているはずだ。

それでも、「地域」と「知域」の間にある意識の中で、最後まで埋まらない可能性があるとすれば、それはリアリティだろう。それは、僕や君にとってのリアリティだ。

現実空間であれば、同じ場所を訪れたり、同じ物を見たりすることで、以前、経験したことを思い出すことができる。あの時、僕が言った言葉に対して、君がムッとしたことを君は笑って話してくれるかもしれない。しかし、そのようなことが可能なのは、現実空間では、僕も、君も、場所も、物も、物質的に存在しているというリアリティがあるからだ。

ところが、サイバー空間上では、このリアリティははかない。

現実空間では、僕は君の機能の表情を覚えていて、「今日の調子はどうだい?」と声をかけることができるが、サイバー空間上では、この挨拶でさえ、リアリティに欠いている。

だからこそ、「知域」のような繋がりを意識することが重要になる。

以下の図は、知域の人と人が、それぞれの解釈項から双方に参照しあう対象を表わしている。本来であれば、片方が、記号表現としての代表項を表わし、もう片方が、記号内容としての解釈項を表わすはずなのだが、「知域」で行なわれるコミュニケーションは、おおよそこのような関係になるはずだ。もちろん、現実空間と同じように、どちらかでも率先して、具体的な物を作り出すことができれば、このような漠然とした関係は解消されるはずだ。

上図は、片方が、対象を知らない場合。
下図は、双方が、対象をどのように捉えればよいのかわからない場合。



よりリアルな意味関係へ。

「知域」から生み出されるような定義が生まれるとしたら、以下のような関係で表わされるだろう。具体的な物を作り出したのであれば、この菱形の堅牢性は極めて高いものになるだろう。

このような関係とよく似た関係を表わしておこう。

この関係は、マスメディアなどによって提示される記号表現を表わしている。マスメディアは、頂点の代表項に位置して、対象の意味表現を行ない、解釈項にある僕や君がその意味を理解する役割を担っていることを表わしている。勿論、僕も、君も、現実空間に存在する対象に触れて知っているのであれば、それぞれの経験から、より適切な意味の理解をすることができるだろう。しかし、ろくに対象のことを知らない状況では、代表項の構築する記号体制がよっぽどしっかりとしたものでなければ、僕も、君も、どこかで疑わしいと思うことになる。まして、僕と君が、直接会話を始めると、2人が一致する解釈と異なった解釈であることが不自然になってくる。

そして、「知域」とは、僕と君が直接的に向き合って、代表項としての記号表現を模索することにほかならない。


知民のリアリティ

「知域」における人々を「知民」と呼ぶとすれば、この2つの記号的解釈のいずれを選択すべきかはもはや明白だろう。よりリアリティを求める関係を目指すならば、僕たちは、サイバー空間上の隣人と向き合って、お互いの考えを見つけ出すことに意識を向けてみるのがよいだろう。

2012年1月9日月曜日

知域とは、なにか?

知域は、積集合。

僕は、知域を以下のように記述しようと思う。
[人]―(知)―[人]

(知)を受け取った人が、自分なりにその「知」を解釈するのに、「()」のような演算子が書かせないと思っている。それは、数式を 
y = f(x)
と記述するのに似ている。具体的には、
人(知)
を数式のように展開すると、「この[人]が捉えている知」が得られるんだと思う。このひとりひとりの捉えている(知)は、リアリティのようなものなんじゃないだろうか?

そこで、冒頭の式を書き換えるとすれば、
[人A]―(知)―[人B]
の関係で言えば、
人Aの知に対するリアリティ ∩ 人Bの知に対するリアリティ
となる。この数式の「∩」は、それぞれのリアリティから共通部分を取り出すような意味を表している。(積集合

問題は、このような共通部分「人A∩人B」を双方が自覚的に共有しようとする継続的な関係なんだと思う。


ひとりひとりが捉える意味がある

交通標識のようなものでさえ、その標識の意味を厳密に言葉だけで表そうとすると、なかなか思うようにならない。どこかしら曖昧な解釈が出てくるように思う。

自分では、うまく説明できていると思うような文章であっても、別の人が読めば、自分の込めた思い、表わそうとした意味と異なっていたりすることはよくあることというより、それが当たり前のことだと思われる。

ひとりひとりの価値観が異なることは、急にそのようになったのではなく、昔からそうであっただけだ。しかし、次から次へと新しいものが出てくるような時代になって、それぞれの個人の興味関心が異なってくると、もはや、他者が話し始めることが何の話なのか、わからないような状況が起きてくる。

つまり、知域とは、そのようなひとりひとりの(知)の異なる存在に気づいている人たちにとっては当たり前のことを言っていることに過ぎない。しかし、そのことに気づいていない人たちにとっては、自分にはわからないことを言っているようにしか聞こえないだろう。


無数の見出し、たくさんの意味。

ウィキペディアには、日本語だけで120万語以上の見出しがある。市販されている一般的な国語辞典にはおおよそ30万語程度の見出しがある。僕たちは、国語辞典の見出しでさえ、そのすべてを知っていることはないだろう。まして、ウィキペディアの見出し語の数は、途方もない数だと思う。

しかし、そのウィキペディアでも、見つからない言葉がある。それ程、僕たちは、異なった(知)を基準にした生活を行ってきている。



そして、同じ言葉であっても、いくつもの意味を持つことができる為に、人それぞれによって異なる(知)をでわかり易く表現することはできない。それが、この現代社会の多様化が生み出している現実なんだと思う。


リアリティを共有できる関係としての「知域」

最初こそ、相手の正体がだれなのかわからないような関係であっても、「人A∩人B」のようなリアリティを築くことができる関係を築くことがとても重要になってきている。

だからこそ、「知域」が必要なんだと思う。

観照的生活のススメ


観照とは精神世界にあるもの

観照というのは、ギリシア哲学ではよく出てくる言葉です。人間は、基本的に物質に囲まれた世界に生きています。そして、この物質があることで、人間は生きることができる。

生きていく中では、人間は、自然という物質世界が引き起こす災害によって傷ついたり、命を奪われたりするし、そうした物質を巡って、人間同士で争ったりもする訳です。人間は、物質に名前をつけたり、そうした物質に意味や役割を与えることで、精神世界に持ち込んだりもします。

なぜ、精神世界のような表現をするかと言えば、物質世界とは異なっていることをはっきりさせるためであり、損得や好き嫌いといった考え方や感情は、物質世界からではなく、精神世界から生みだされると考えるからです。

物質世界は、すべての人に共通する世界です。しかし、物質世界から完全に切り離された精神世界は、ひとりひとりの個人にしか主観化できないところです。僕たちは、言葉を使って意思疎通をしています。しかし、それは、自分の精神世界の中で呼んでいる概念と他者の精神世界で呼ばれている概念が、たまたま同じであるときにだけ成り立つ話です。つまり、人間は、ある概念をどのように呼ぶかということを他者の言動の中から学び、その概念とその概念に当たる現象や物質の呼び方を関連づけているのです。

観照とは、純粋に精神世界の中だけで、さまざまな思考を行なうことを指しています。


概念で物質を分ける

こうした思考の中で、もっとも純粋な概念には、「美」のようなものがあります。僕たちは、美男、美女のような「美」は、既に述べたように物質的な存在と結びつけて考えます。ところが、「美」という概念が生まれたからこそ、美男、美女というような区別ができたのです。

つまり、物質的な人間は、単に、老いて死んでいくしかなかったのですが、「美」という概念が見つかって、美男、美女として扱われるようになる訳です。

観照の世界で、「美」という概念が生まれ、そうした概念に基づいて物質が分けられている訳です。ここで大切なことは、その順序です。


神さまという概念

哲学者たちは、こうした物質的なものを切り離して、「私が美しく思う(心が落ち着かないような思いになる)のはなぜだろう?」と考えていた訳です。そして、観照とは、このような純粋に精神的世界のだけで思考することを指しています。

たとえば、「死」のようなものも、こうした観照の対象になりました。

ギリシア神話に出てくるたくさんの神さまたちは、人間的な姿をしていながら、死ぬもの(モータル=人間)に対して、死なないもの(インモータル=神さま)として表現されています。神さまたちは、「死」に対する観照によって生みだされた、ある種の哲学的な創造物だと思われます。言い方が曖昧になるのは、神さまという概念が作り出された時には、そもそも、哲学という概念を定義していなかったので、記録に残されていないからです。


概念(イデア)の世界

プラトンが、このような精神世界のなかでも観照によって生みだされる概念をイデアとして呼び、哲学者たちが同様に扱うようになったおかげで、哲学者同士の精神世界を表現しあえるようになったとも言えます。

美男・美女について言えば、単なる生殖行動の対象だった異性が、性的欲求の対象となるのは、「美」によって、「醜」によって、人を区別するようになったからとも言えます。現代哲学は、この区別を境界と呼んだり、「自分の主観」や「世界の疎外」のような表現で、定義の内と外を表現しますが、これらも観照の中で決められるような重要な言葉です。

「概念」があることが当然のように考えている現代人からすれば、「観照って何?」と思ってしまうかもしれませんが、本能のままに動物と変わらない生き方をしていた人間たちが、物質世界のなかで少しづつでも安定した生活が営めるようになったとき、精神世界の安定をさらに探求し始めたことであり、いくつもの概念が生まれたことで、物質世界よりもたくさんの概念が生まれる可能性が広がったと言えます。

勿論、ギリシア時代では、そのような観照的生活は、ごくごく一部の特権的な生活であったことは間違いないでしょう。


現代人と動物

現代社会では、物質世界と同じ暗い、あるいは、それ以上に、精神世界が広がっています。もっとも、既に定義された概念があることから、物質世界についてあまりしらなくても、つまり概念的な境界をいちいち考えなくても、現代人は暮らしていくことができます。その結果、誰かが言っている言葉や意味を鵜呑みにしていても、物質を所有すること、サービスの恩恵を得るといった「結果」だけに注意を向けて選択すれば、現代人の生活では、何も困ることはないという発想が広がろうとしています。

消費文化において選択するということは、ギリシアの哲学者が行なっていたような定義について何も考えなくなることにも近しい状態を生みだします。多くの現代人にとっても、ギリシア哲学者が生きた時代の哲学者以外の人たちにとっても、自分たちの周りにあるものは物質世界でしかありません。その為、精神世界で起こってことに興味関心が向かなければ、物質世界における商品やサービスがもたらす「結果(をもたらすだろうイメージ)」を選択するだけの生活に慣れ親しむことになる、「観照」的な行為の意味についても、ずっと気づかないままでしょう。

現代哲学において、本能や欲求のままに行動しようとする現代人が「動物」と呼ばれるようになってきているのは、まさにこうした観照的生活を捨ててしまったように思われているからではないかと考えます。

2012年1月5日木曜日

土佐日記と日本語


土佐日記

紀貫之が『土佐日記』を書くにあたって、当時、政治語として使われていた漢字と、生活のなかで使われていた仮名を組み合わせたことで、現代的な日本語文化が花開いたそうです。

それ以降、日本語は、外来語をカタカナに変え、複雑な表現を略語化し、さまざまな表現領域に加えて、それぞれの領域に奥深さを持つように発達してきています。

「グッとくる…キュンとする」

感情や表情まで伝わってくるような、こうした日本語の表現力は、擬音語や擬態語のような表現までを伝達手段にしています。

もっとも、僕たち現代人は、言葉を一瞥しただけで難しい(だろう)とか、先入観を抱くようになっています。実際、文字を見れば、内容を読むまでもないときびすをかえす人も多いでしょう。更には、文字を読んだとしても、もっと簡単にして欲しいと自分を基準にしてしまいます。更に、更には、その内容が読み手自身や読み手の好きなものを非難するようなことでもあれば、もはや、書き手は、読み手の「敵」としてレッテルを貼られることもしばしば起きています。

その結果、文字や言葉というものは、自分のような人に向けて最適な読みやすさで発せられるべきで、難解な言葉など意味がないと言わんばかりに、「無視」をすることになります。もちろん、言葉を発している人が、ゆくゆくは、その「無視」されることになる。あるいは、まったく見えないような場所で、風評が流れ始めてしまう。

たしかに、これだけ情報が溢れているのだから仕方がないと言うべきかもしれないでしょう。でも…

僕たちは、この時代に、何を基準にしてコミュニケーションとするのか、改めて考えてみるべきでしょう。自分には理解できないと思う内容を少しでも理解しようとする人がいるならば、その人は「自分の可能性を広げよう」とする人たちです。

紀貫之が、こんな凄い日本語を生みだしてくれた人だったとは、学生時代には、気づきもしなかったのですが、こんなことを書いてみます。

2012年1月2日月曜日

スカイプ鍋

スカイプ鍋

「スカイプ鍋」とは、インターネット上で提供されている会話サービス「スカイプ」を使って行なう複数人での「会議通話」である。このサービスは、インターネットに接続された環境があり、音声通話だけであれば無料で利用ができる。

僕は、ツイッターやフェイスブックで知り合った人たちと行なう音声だけでの「会議通話」を「スカイプ鍋」と呼ぶことにした。これが、一度やってみると、なかなか面白い。

「スカイプ鍋」をやってみると、まるでヤミ鍋のような感覚が生まれる。

「ヤミ鍋」には、あらかじめ仕込んでおいた鍋料理を暗がりのなかで友人たちと食べるだけなのだが、ちょっとしたゲーム感覚がある。鍋の具材に、普段の料理では入れないようなものを入れておくことがポイントになる。暗がりで鍋をつつくと言っても、鍋を温める火のおかげで、適当にぼんやりと友人たちの気配を感じることはできる。だけど、肝心の鍋の中身はわからない。具材を取るために鍋をつつくのだけれど、思ったとおりの具材を取ることが叶わないので、どんな具材を取ったかは、食べながら自分で想像することになる。もちろん同じことが、自分だけでなく友人たちにも起こるから、暗がりのなかから聞こえる音や声だけが想像を刺激することになる。

すぐ近くで起きている現実であるはずなのに、自分に起きていることではない。でも、確かに起きているという現実。このような不思議な感覚がヤミ鍋では起きる。

「な、なんだこれは?」
「おお、美味いなあ。これは…」
「え?な、なに?」

このようなヤミのなかで聞こえてくる友人たちの声は、それを聞く人の頭の中、つまり、想像だけで具体化されることになる。

つまり、「スカイプ鍋」とは、そのような「ヤミ鍋」的なリアリティから発想したようなものだ。

会話をする相手は、ツイッターやフェイスブックで知り合った人たちである。実際に会ったことがない場合がほとんどだろうけど、知り合った経緯から考えれば、まったく興味関心が異なるということはない。もちろん、鍋料理そのものを用意する必要はない。実際に会話をはじめて見ると、「ヤミ鍋」をつつくように、話し手が誰かを特定することもなかなか侭ならないことが多い。そして、あまりよく知らない相手が話す言葉というのは、とても生々しく思えるのだけれど、その一人一人の意見が、その人にはどんなものかリアルに感じられているのだろうけど、話だけを聞いていると、実に主観的に聞こえるものであることを痛感させられる。

そう。「人の意見はかくも主観的である」ということを実感でき、そして、それが特別なことではなく、僕たちの日常的なやりとりだと気づくことができるのが、「スカイプ鍋」の面白いところだ。そして、そのことに気づいて上手く話そうとするのだが、話す技術よりも、聞く技術がとても重要だとわかってくることも面白いところだ。

「スカイプ鍋」の醍醐味が、まさにそこにある。

「これは、蒲鉾だよね?」
「え?そんなの入っていた?」
「うん。あった。あった。」

今、まさに自分が感じていることなのに、誰かが言ってくれる表現が、自分のリアリティを補完してくれることに繋がる。そして、このような自分以外の人が感じている言葉が聞こえてくることによって、自分自身が感じている言葉を、より安心して発することができるような感覚が生まれる。

「スカイプ鍋」を通じて、そこに参加した人たちの心が和みを覚えることに気づかされるはずだ。

――

フランス人哲学者、フェルナンド・ガタリは、『分子革命』のなかで、ネットワークの特質に触れて、以下のように書いている。
このネットワークは従来の表現形式を拡充することによって、…いっさいの現実から断絶した観念的論議から脱出することに貢献しようとのぞんでいる。p222
「現実から断絶した観念的論議から脱出する」というのは、すこしむずかしい表現だけど、以下のように考えてみるとわかりやすいだろう。

自分だけが感じている、あるいは、気づいている問題について、できる限りわかりやすい文字を書こう書こうと意識すればするほど、より自分だけが感じる表現について論議しようとすることになる。だから、このような閉塞してしまいやすい論議を避けるためにも、ネットワークによる表現形式が拡充されることが役立つだろう、とガタリは考えている。

――

まあ、手っ取り早く「スカイプ鍋」を試してみることをお勧めする。なにしろ、インターネット上で、このブログを見ているような環境がある人であれば、すぐにでも始められることなのだ。だからこそ、この手軽な「ヤミ鍋」気分を楽しんでみるといいだろう。

眼の前にいる人間の姿が消えて、声だけがお互いを確かめあう手段になってみると、もっと上手く気持ちを伝えあうこと、もっと上手く気持ちを聞き取ることの大切さに気づけるはずだ。

そして、そんな状況のなかで聞こえてくる声のなかに、自分の感じている感覚と似たようなものを感じるとき、周囲から聞こえてくる声が、自分を「安心」させてくれる、そんなぬくもりがあるはずだ。

そして、そのような瞬間にこそ、「蓋然性の他者」が「必然性の他者」に変わる瞬間を確認できるんじゃないかと思う。