2011年12月11日日曜日

セレンディヴィディ

自分が意図していない時に、何かの偶然に知り得るような発見がある。こういう発見を「セレンディヴィディ」というらしい。


セレンディヴィディ

少しひねくれたように思われるかもしれないが、僕は、そのような発見の場合、もともと、ある意味に当てはまる単語の存在を知らなかっただけではないかと思っている。つまり、そういう発見をしたと喜んでいる時には、たいていの場合、単語と意味が対になっていなかっただけのように思う。

だから、このような感覚を自分以外の人との間に感じる、所謂、「共感」というのは、最初からそれぞれの価値観で通底しているような尺度があってこそ成り立つと思う。たとえば、相手の脇腹をちょっと小突いて、相手の注意を特定の者に向けさせるような「ナッジ(Nudge 気づかせる)」のような行為は、同じ価値観の上で話していなければ、単なるチョッカイのようになってしまう。

実際、新奇なモノに対して、よく知りもしない、よく考えもしないうちから、価値判断をくだすようなコトが多く。そういう場合に、「セレンディヴィディ」のように自発的に気づくことも、「ナッジ」のように誰かに気づかせてもらうようなことも起こりそうにはない。


ソーシャル・ネットワークにおける「蓋然性の他者」の存在

ソーシャル・ネットワークにおける「蓋然性の他者」の存在は、そのような価値観を共有できるような存在ではないかと思う。そして、「蓋然性の他者」の存在に気づいた瞬間から「必然性の他者」へと変わるまでの時間をどのように捉えることができるかが、実はとても大切になろうとしているように思う。

人は、誰かと話をしていると、相手に自分の考えを適切に伝えようとすることで、自分の考えをより具体的にしたり、簡潔にできたり、あるいは、適切な事例を発見することができたりするように思う。

ソーシャル・ネットワークには、「蓋然性の他者」だけでなく、「必然性の他者」が一緒にいるから、このような状況の中では、「知域」は思わぬところで広がっていくことになるように思う。このような驚きは、やはり「セレンディヴィディ」と表現しておく方がいいのかなと感じさせる。


「無関心の他者」

それでは、ソーシャル・ネットワークには、「蓋然性の他者」と「必然性の他者」だけで満たされているのかというと、実は、その大多数が、「無関心の他者」と呼ぶべき人とでしめられているように思う。そして、実は、このような人たちが、本当の意味で、「セレンディヴィディ」のような経験を「共感」させてくれる人たちではないのかと思う。

現実世界では困難なことだけれど、ソーシャル・ネットワークには、このような「無関心の他者」の存在を確認する方法はいくらでもある。もっとも簡単な方法は、自分の知人がどのような人たちと会話をしているのかを端から眺めてみればいい。そうすると、そのような人たちは、僕に対してこそ興味を示さないが、多くの人たちと楽しい時間を過ごしている。そして、彼らが僕に対して無関心であるように、僕もまた、彼らに対して無関心であることに気がつくべきだろう。

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このような人たちに対して、「気づかいを持たない(care-less)」であることが、僕たちの世界の広がりを妨げているようにさえ思う。では、なぜ、「無関心の他者」に見えるような人たちがこれほどまでたくさんいるんだろうか。

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