2011年12月21日水曜日

なごみと気づかい

なごみ

気心の知れた仲間のような存在でも、どこか刺々しく応対してしまうようなときがある。そういう時に、必然性の他者は、僕のことを本当によく知っていて、たわいのないようなことから僕をなごませてくれる。


気づかい

蓋然性の他者は、必然性の他者と異なって、僕のことを本当によく知らない。無神経だと思うようなことばを真正面から投げつけてくるようなことも起きたりするのだが、当の本人は、そのことに一向に気がついていない。彼の注意は、最初からまったく別の方向に向けられていて、もしかすると、こういった場合、彼の中では、僕は、無関心の他者とさほど変わらないような存在であり続けているのかもしれない。いや、恐らくそうだろう。


なごみと気づかい

なごみと気づかいを使い分けることは、なかなか難しい。彼も、僕も、同じように、それぞれを必然性の他者と認めていないことが起こるからだ。インターネット上のコミュニケーション・システムのような機械領域は、このような主観の在処を明確にせずに、履歴から計算を行なう。言語解析技術だけならば、コンピュータが間違って感情を理解するようになるかもしれない。然し、コンピュータでさえ、表情をはじめとする生態的な変化を読み取ることで、人間を知ろうとしている。

なごみは、そこにいる人それぞれの人間性を経験的に知り得た関係の中でつくられる状態だと思えるし、気づかいとは、なごみとはまったく異なった感覚を中心になって行なわれるべき表現だと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿