2012年4月12日木曜日

他者とは何か?

僕たちは、本当に自分以外の誰かと同じ空間のなかで、同じ時間を過ごしたいと思っているのだろうか?

狡知(こうち)という知性。

多くの脳科学者たちは、類人猿など知能を持った動物の研究に注目している。そうした研究からは、「狡知(こうち)」と呼ばれるような知性が、チンパンジーのような高い知性を持った動物にもそなわっていることが明らかになっている。

狡知は、「ずるさ」や「悪知恵」と呼んだほうがわかりやすいかもしれない。あるチンパンジーを使った実験では、自分から行動しないで、仲間のチンパンジーに行動させるようとすることがわかっている。チンパンジーは、こうした狡知をさまざまな実践のなかで経験的に獲得するらしい。もちろん、チンパンジーのこのような行動は、人間社会でも日常的に、それも頻繁に行なわれていることは間違いないだろう。


ダブル・コンティンジェンシー。

狡知を可能にするためには、「推論」する能力が不可欠である。人間がチンパンジーなどの知性の高い動物と際立って優れた能力は、この「推論」する能力である。よくわかっていないことがあると、まず誰かが行動に出るのを待つ。そして、その行動の結果を見極めてから、自分が行動するかどうかを決める。これは、ある行動がどのような結果を招くのかよくわからない状況において、一般的に多くの人がとる行動だろう。

たとえば、銃を持ったふたりが、お互いに銃口を相手に向けたままで向き合っている。油断すれば、自分が殺されてしまうかもしれないような状況を思い浮かべてみて欲しい。

「銃を捨てろ。そうすれば、俺も銃を捨てよう」

このような状況において狡知が働くとすれば、少しでも相手より遅く銃を捨てたいと思う。しかし、双方がお互いの利益(この場合、最後まで銃を捨てないということ)に固執すれば、この問題は解決することが無い。これが、「ダブル・コンティンジェンシー」と呼ばれる状態である。


「推論」と「回避」

より高い知性があるとすれば、こうした状態そのものに陥ることを避けようとするだろう。そして、「回避(=状態そのものを避けようとする行為)」こそが、現代人の典型的な特徴のように思う。たとえば、積極的に自分以外の他者との関わりを避けようとすることが、それである。家族や友人であっても、口やかましいと思えば、回避するようになる。

このことから、以下のような「他者」の存在が見えてくる。



必然性の他者。

「必然性の他者(Inevitable-Other)」とは、家族のような存在を思い浮かべてみるといいだろう。必然性の他者は、たいていの場合、長い間、一緒に暮らしているような存在であることが多い。そのため、彼らのことであれば、ある状態ではどんな態度とるか、彼らがとりうる行動を予測・推論できることさえある。


蓋然性の他者。

「蓋然性の他者(Probable-Other)」とは、本やメディア、あるいは、別の他者からの伝聞などから得られた情報を通じて、推論できるような存在である。たとえば、物やサービスが存在するということは、それを作った人がいることを連想させる。もちろん、そうした他者とは面識がない。そして、彼らがどんな格好をして、どんな生活をしているか知らない。しかし、社会のどこかには(物やサービスを生み出している人たちがいるという)活動領域があって、その活動領域にある役割を担う誰かがいるからこそ活動が行われている。少なくとも、蓋然性の他者は、そのように推論可能である。


無関係の他者。

「無関係の他者(Innocent-Other)」とは、世界のどこかにいる人類の誰かである。たとえば、地球の人口を想像してみよう。数字上では何十億人と把握できるかもしれないが、僕たちは誰もそのすべての人を見たことはないし、聞いたこともない。概念としてのみ把握できる、いわば、純粋な人間である。たとえば、それは場所や空間のような概念と同じような性質をもっている。昔話のはじまりにでてくる「あるところ(=見知らぬ場所)」という場所が実際に存在するかどうかを疑いはじめたらきりがないのと同じで、無関係の他者は、普遍的な人間の概念を指している。もちろん、最初から回避した状態にあるから、接触することは無い。さようにとりつく島が無いので、当然のことながら推論できない。しかし、自分が人間であることを否定できないように、他者も人間であることを否定できないのは、どちらも無関係の他者と同じ普遍性をもっているためでる。


偶然性の他者。

「偶然性の他者(Contingent-Other)」とは、電車の座席で隣り合わせる人のような存在である。なぜ、そこに、その人がいるのか、勝手な妄想を巡らせることはできても、適当な理由が見つかるはずはない。現実空間では、偶然性の他者は、物理的に移動することで出会うことが多い。学校に入学した際に同じクラスになる人も、見知らぬ土地を旅するときに出会う人も、偶然性の他者である。偶然性の他者は、ある意味で自分とは異なる生活をしているし、自分の知らない知識・技術・経験をもっている。しかし、どのような知識・技術・経験を持っているかは、特定することはできないために、こうした人たちの行動を推論することはできない。もちろん、この場合の行動とは、その他者がおこなう固有の行動であり、無関係の他者のような、つまり、普遍的な人間がとるであろう行動とは区別されるものを指している。


「偶然性の他者」との対立。

ダブル・コンティンジェンシーな状態とは、(1)必然性の他者と必然性他者の対立、あるいは、(2)必然性の他者と偶然性の他者の対立、あるいは、(3)偶然性の他者と偶然性の他者の対立のいずれかである。そして、このいずれの組合わせも、回避不可能な他者が対立することによって、ダブル・コンティンジェンシーな状態が起きている。

この状態から衝突を避け、どのように回避できるだろうか?

たとえば、必然性の他者同士であれば、お互いに衝突を回避するための条件を提示することができるはずである。冷静時代、アメリカとソ連は情報戦を行ない、相手の置かれた状況を的確につかむことで、より有利な状態に移行しようとしていた。数学者のジョン・ナッシュは、互いに非協力的になってしまう状態のことを「ナッシュ均衡」と呼んだが、対立する他者が偶然性の他者でありつづけるかぎり、自分が置かれている状況や文脈から発想するような、自分と同じような考えをしているはずだという思い込みだけでは推論にはならない。この状況は、対立するいずれか一方でも、偶然性の他者としてみなされる場合には膠着することになる。なぜなら、他者との対立を解消するのは、それぞれの立場から相手がとるであろう今後の行動に合理的な判断(=推論)ができる場合に限定されるためである(相互主観性)。


現代人が恐れていること。

このように整理してみると、「偶然性の他者との対立」は、現代人がもっとも恐れていることではないかと思えてくる。現代人は、家族や友人のような関係においても、自分の興味関心といったものが十分に理解されないと思い込んでいる人が多い。ただ一緒に暮らしているだけでは伝えきれないと感じるものが多いのかもしれない。このように考えてみると、必然性の他者は、家族や友人であっても、常に絶対的な必然性を伴った存在であることは断言できなくなってきている。

このような他者との深刻な関係を生み出している背景には、高度に専門化した言語の存在がある。もちろん、言語を使ったやりとりは現代に始まったことではない。しかし、現代社会には、極めて特殊な活動領域、専門領域といったものがあり、こうした領域で使われる言語というものは、他者から適切な理解を得るには相当量の時間と学習を費やす必要がある。そのため、他者との関係を構築するにも、どのような言語が適切であるのか、そうした選択でさえも漠然とした恐怖観念となっている。若い世代に話しかけるのに、若い人たちに共通する話題のようなものが無いことがひとつの現れとなっている。だからこそ、最初から他者との関わりを避けて、自分だけの世界に閉じこもろうとするような精神行動も増えているのかもしれない。


脳科学のアプローチ。

最新の脳科学では、「笑顔」が及ぼす脳への影響が着目されているようだ。どんなに見知らぬ人同士でも、人の表情のうち「笑顔」だけは、相手の警戒感を和らげるのに役立つということが研究成果として発表されている。また、別の脳科学の研究では、人間は、意識を向けている相手との間に「差」を感じることでネガティブな感覚を持ち、「横並び」に感じることでポジティブな感覚を持つことが報告されている。

こうした脳科学の研究成果によっては、未来の人間関係のありかたに抜本的な解決方法がもたらされるかもしれない。このような研究成果は、無関係の他者のような普遍的な人間にたいするアプローチとして捉えることができるならば、光明と思えるものである。

僕たちの社会には、いつも例外的な人間がいる。しかし、それはすべての人が同じでないことを考えればもっともなことである。だからこそ、どれだけ高尚な知識が共有されるようになっても、「人格」が実際の行動に与える影響はとても大きい。かりに運良く、同じ言葉の意味を受けとってもらうことができたとしても、言葉に込められたメッセージは、受け手の人格によって解釈されるのだ。つまり、猜疑心の強い人には何を言っても、その人に向けた言葉がその人のリアリティに響くことがなければ意味はない。繰り返すが、現代社会における言語は、ごく限られた領域でのみ目的の通りに機能することが一般的な理解になろうとしている。


「共通する何か」を探ろう。

だからこそ、同じ人間であるという一点において、「共通する何か」を見いだそうとすることを怠ってはならない。「脳科学のアプローチ」が、まさにそのような探求にほかならないだろう。

現代人が他者との衝突を恐れ、趣味などをはじめとして自分の興味関心が向かう世界に没入してしまおうとする気持ちはわからなくはない。しかし、今いる世界からエクソダス(脱出)できても、新しい土地では、ほとんどの人が「偶然性の他者」となる。もちろん、よくわからない相手と対立することは苦痛かもしれないが、相手も同じように苦痛を感じていることを忘れてはならない。だからこそ、わずかな光が差すなかに「共通する何か」を探ろうとすべきだろう。

たとえば、それは笑顔で笑うことでもいいし、相手と同じ目線の高さになるように姿勢を変えてみることでもいいし、水や食べ物を摂ってみることでもいいし、同じ花を見るようなことでもいいだろう。いずれにせよ、「推論不可能」と決めつけていた「偶然性の他者」を「推論可能」な「必然性の他者」にする糸口を見つけるには、自分勝手な思い込みや「推論」のように、「一方的に感じること(sense)」ではなく、謙虚な姿勢から「共に感じること(consent)」が必要になるだろう。


同意すること(consent)。

他者とのあいだに同意することを見つけるのは、言語のようなものではなく、作用に対する反作用のように、直接的に眺めながら、その反応を感じあえるものでなくてはならないだろう。そうした光景では、「笑顔」は、お互いが「共に感じること(consent)」を明かすものになるはずである。

「同意すること(consent)」と日本語で訳される単語は、ラテン語の
consentīre (con-共に+sentīre感じる=同意する)
を語源としている。

なるほど。たしかに、「同意する(意味が同じに思える)」ということは、「共に感じること」の上に積み上げることができるリアリティなんだと思う。

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