2011年11月28日月曜日

こころの物差し


本来、他者がことばに託す意味は、僕たちが自覚すること以上にたくさんあるはずだ。僕たちは、僕たちのこころが自発的に受け取る(プルする)ことのできる「共感」と「セレンディビティ」程度の意味しか受け取ろうとしない。

「共感」は、自分が元々受け取りたいと意図していた価値観であることが多く、「セレンディビティ」は、意図せず偶然受け取ったような賜物的な価値観であることが多い。そして、たいていの場合、他者の意見とは受け取りを拒否したいと思っているような他者の「押しつけ(プッシュ)」のように感じている。

だから、僕たちは、わずかな意味しか受け取ることができていない。しかし、僕たちが批判的に「意識」している他者の価値観というものは、実は、一度ならずとも、僕たちのこころに刻まれたことのある「意味」でもある。だけど、なんとなく難解で厄介な記憶のなかで、そのような「意味」の受け取りを拒否するようになったものだと思う。

このような「意味」を含めて、僕たちのこころに許容できている「意味」は、人間が常に新しい能力を身につけてきたという人類の可能性から考えると、とても少ないように思えるのだが、現代人の多くは、もういっぱいいっぱいに感じているのかもしれない。

こころの中で捉えられる「意味」を測る尺度というのは、数理的な解釈をしてみると分かりやすい。

数直線の上には、整数のような「有理数」が存在している。「有理数」と「有理数」の間にたくさんの「無理数」が存在している。僕たちが意識している「意味」とは、「有理数」のようなものだと思えばいい。そして、他者の意識している「意味」は、運よく「有理数」としておくことができるときもあるのだけれど、最近では、頻繁に、「有理数」と「有理数」の間にあるような「無理数」のような「意味」になってしまうことがある。なんとなく判ったような気がする瞬間もあるのだけれども、面倒になって、数直線の上に現われないことさえ起きはじめている。

このような道の数字に出会うことが起こるのは、学習の経験がとても退屈で、楽しいものじゃないと思う人が多いことに起因しているのではないだろうか。

このような自分のこころの中に措くことのできない他者の感情を受け取ったり、それに気がついたりすると、こころは、どこかもどかしいし、どこか消化不良で、気がつくと、そんなもどかしいもので溢れそうになっていることがある。

自分のもどかしい思いと同じように、他者ももどかしい思いをしているはずなのに、自分の物差しに刻まれた尺度が大雑把すぎる為に、相手の意味をとらえることができない。勿論、尺度が細かければ、すべてにことが足りるという訳でもない。大きな概念には、大きな尺度も必要になるはずだろう。

僕たちの「こころ」を測る為には、僕たちは、その物差しの尺度を確かめながら、他者の言葉を聞く必要があるはずだ。

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